勝山 Mt.Katsuyama 糸魚川市



新潟県の最西端、日本海に食い込むように切り立った328mの山である。登山口は国道8号脇、勝山城祉登山道の石碑がある。階段を上ってゆく。
山頂平坦部の南奥には三等三角点、勝山城の説明板、石祠がある。
戦国時期、勝山城(落水城)が築かれ山頂には本丸がおかれたが、その遺構が残る。
展望は南東に黒姫山、東方に糸魚川、上越方面に延びる海岸線が続いている。天候により北の水平線上に能登半島や佐渡島も見られる。


≪勝山城≫

勝山城がはじめて築城された時期は不明であるが、戦国時代になると上杉謙信が越中からの侵攻を防御する要として落水城に家臣を配置し、防衛に当たらせた。謙信の死後、上杉景勝の代になると織田信長の家臣である佐々成政の軍が上杉領侵攻を狙い、魚津城、松倉城を攻略して来たため、景勝は急遽、落水城を整備し、自国領の絶対国防線の最後の砦とした。
天正13年(1585)越中富山城に籠城した佐々成政討伐のため、6万の軍勢を率いて城を包囲していた羽柴秀吉が、30数人のわずかな兵を率いて勝山城に現れ、景勝との会見を申し入れた。当時の城将は須賀修理亮盛能であったが、春日山城に知らせを入れ、景勝、兼続が駆けつけ秀吉、三成の4人だけでふた時密談が行われた。景勝は秀吉に臣従し上洛する旨を定めた落水の盟約が成立した。
このとき、城名が落水という名では盟約に水を差し縁起が悪いということで、勝山に呼び名が変更されたという。
慶長3年(1598)上杉景勝が会津120万石へ転封となった際に廃城となった。

勝山城跡
勝山城は、戦国時代上杉氏が領国の経営と国境守備のため、春日山城の支城として各地に保有した番城や砦の一つで、謙信没後その跡を継いだ上杉景勝が、越中方面からの織田信長の脅威に備えて築いたものである。はじめ地名から落水城と呼ばれていたが、後に勝山城と改められ、秋山守綱、荻田主馬丞らが城将であったことなどが古文書に記されている。
勝山城は、標高三二八米の山城で、足下日本海ガせまり、遠く西は親不知や越中宮崎の鼻が、東は姫川河口から不動山城(早川)や徳合城(能生町)が望まれ、望楼としても優秀であった。山頂には壕で守られた三廓の主陣地帯を設け、これを核として、さらに西南に次第に高く続く尾根には、削平地や空壕が長城のように構えられている。山頂への道は、海岸の落水から尾根づたいに急坂を登る道と谷川に沿って地獄谷を通る道、大沢部落から七曲りを通り権現山へ達する道の三本があるが、今は最初の道だけを利用している。
豊臣秀吉は、越中の佐々成政の征伐が終わると石田三成以下わずかの供を従え勝山城へ乗り込み、この地で上杉景勝と会見し、固い盟約を結んだことは大いに有名である。時に天正十三年(一五八五)夏のことであった。
山頂の石祠は昭和十三年に青海青年会が建てたもので、上杉ゆかりの高田の春日山神社から、お札をうけてまつってある。








































枡形山 登山口