雲洞庵 Untoan 南魚沼市



坂戸城のある坂戸山(標高633.7m)が連なる金城山(標高1369m)の麓に所在する曹洞宗の寺である。奈良時代の養老年間(717-24)、藤原房前の創建の尼僧院として栄えていたと伝えられる。
応永12年(1405)、村上市耕雲寺の僧、傑堂がこの地を巡錫した。
室町時代応永28年(1420)になって、関東管領上杉憲実がその徳を慕い、藤原房前の建立した廃寺跡を再興して開基となり、正長元年(1429)耕雲寺の僧、顕窓慶宇を請うて創立した。このとき宗派も曹洞宗に改められた。以降、上杉家の菩提寺として発展する。その時に建立されたのが、赤門※ストリートビュー(後に再建)である。昔は皇室関係者や大名の来山以外は、特別な行事の時だけにしか開門されず、「開かずの門」と云われていた。雲洞庵を代表する建物。
また上田長尾氏の帰依も厚く、十三世通天存達は上杉景勝の叔父(長尾政景の弟)であったので、一層の庇護を受けて寺勢盛んであった。曹洞宗越後四ヶ禅道場の一つとして発展。上杉景勝は、父長尾政景の死後、叔父の通天存達に引き取られ、仙桃院に見いだされた直江兼続も雲洞庵で学ぶことになった。ここで四書五経をはじめとする武将としてふさわしい教養を身につけ、知性に磨きをかけたのである。
慶長3年(1598)上杉景勝の会津国替えにより一時衰微したが、その後坂戸城主堀直奇が、大門内の年貢を免除し、高田藩松平氏は東照権現茶湯免として開発地20石を寄付した。天和3年(1683)検地では45石余りが除地になったのである。
建物は本堂※ストリートビュー・禅堂・経蔵・庫裏・報恩閣がある。本堂は、江戸時代宝永4(1707)年に、新潟県出雲崎の小黒甚内を棟梁とする大工群によって再建し、近世寺院建築のもっとも優れたものとされ、県の文化財にも指定されている(新潟県指定文化財 昭和61年(1986)3月28日指定)。

本尊釈迦牟尼仏※ストリートビュー、脇侍、迦葉尊者、阿難尊者、十六羅漢を安置している。

宝物には、上杉景勝遺墨ほか、武田勝頼書状、北高禅師「火車落としの袈裟」、戦国時代の武将の古文書などが展示されている。また、庭池のほとりに、鈴木牧之が建立した宇佐美定満(上杉謙信の武将)の墓がある。

赤門から本堂に続く参道の石の裏に法華経を書いて埋めたという。このため功徳があるとういうことから有名な「雲洞庵の土踏んだか」 という言葉が生まれたという。

平成21年(2009)放送されたNHK大河ドラマ『天地人』では、与六(後の直江兼継)・喜平次(後の上杉景勝)らが修行したお寺として描かれた。

・2016年(平成28)5月22日、47世住職に就任した田宮隆児和尚(54)を迎える「晋山式」が行われ、46世住職の新井勝龍和尚(86)から、約1300年の伝統が引き継がれた。






雲洞庵