西生寺 Saisho-ji Temple 長岡市



〔宗派〕真言宗智山派 海雲山瀧泉院

町の北部、弥彦山の南西部にある真言宗の寺。奈良時代、行基の創建と伝え、のち奈良興福寺の僧寿佳が来山して再興したといわれている。
境界は約1万6500㎡。木々が茂って風致に富み、前庭からは西に日本海の大観がほしいままにできる新潟県景勝第8位の展望台がある。とくに落日風景が素晴らしい。堂宇は本堂・客殿・庫裏・弘智堂・金毘羅堂などを備える。本尊は伝行基作の阿弥陀如来。
弘智堂には、貞治2年(1363)に入寂したという弘智法印の即身仏が安置されている。昭和24年(1949)7月、学術調査があり、日本最古のミイラと解明された。
芭蕉の愛弟子曾良の「奥の細道随行日記」にも、この即身仏の事が記されてあり、元禄2年(1689)7月4日に訪れている。奥の細道時代からすでに知られていたことが分かる。当時は西生寺東方の岩坂にあった養智院におかれていた。(👉松尾芭蕉)
法印は下総国(現在の千葉県八日市場市大浦)の鈴木五郎左衛門の次男として出生した。高野山に登って修行を積み、晩年は岩坂に草庵を営んで過ごしたといわれている。最後の修行地として西生寺奥の院で3,000日の木食行を成願して、66歳で入定した。「岩坂の主(あるじ)は誰ぞと人問わば 墨絵に書きし松風の音」という辞世の句を残している。
良寛が五合庵に定住していた約20年に間に、分水や寺泊の寺院を転々とした時期があった。西生寺に一時仮住まいしたのは享和3年(1803)、良寛が46歳の時だった。西生寺に半年ほど仮住まいし、弘智法印即身仏の遺した「辞世の句」に感銘を受けた良寛は「題 弘智法印像」として「漢詩」を残している。(👉良寛)
また寺では、近くの山中から湧く冷鉱泉をひき、わかして弘智温泉と称し、かつては湯宿を経営していた。





















西生寺 弘智堂 南泉院 地蔵院 新潟県景勝第8位の展望台