浄念寺 Jonenji Temple 村上市



村上市にある浄土宗の寺院。
創建は明応年間(1492~1500)で、浄念という行脚僧が庵をむすんだのがはじまりとされている。中興したのは春日元忠(上杉氏の武将)で天正末年(1591)のことと伝えている。
村上藩主の菩提寺とされたことが多いので、時々寺名を変えている。榊原政倫、勝乗(1667~1704)の折には泰叟寺と名前をかえた。寺勢をあげたのは寛文7年(1667)に榊原政倫が藩主となったときとされている。その頃の泰叟寺は榊原家の菩提寺として百石の寄進を受け、外に御齋米ならびに御施餓鬼米として百八石を賜っていた。
榊原家の泰叟寺の時に、江戸深川の霊厳寺を再建(1658)し、後に江戸玉川奥沢の九品仏で名高い浄真寺の開山となった珂硯上人が住持であった。
また、間部家の菩提寺で、間部詮房候の御霊屋がある。間部詮房は、享保元年(1716)将軍に吉宗が就任すると、権力の基盤を失い、享保2年(1717)に村上城主となった。享保3年(1718)5月26日村上城の鐘ノ丸櫓が落雷で全焼し、江戸へ急使を立てて報じた。6月末に詮房は初めてお国入りした。しかし享保5年(1720)、暑気あたりから衰弱し病没。間部家では浄念寺を菩提寺とし詮房を葬った。墓所は浄念寺の裏手にある。同家では鯖江へ転封したのちも、毎年のように参拝に訪れて、多額の金品を納めていたという。

本堂は文化15年(1818)に建てられ、その後文政6年(1823)に再建された白壁の土蔵造りで、内陣は阿弥陀堂の様式をとった珍しい建物で、日本で一番大きなこともあり、平成3(1991)年に国の重要文化財に指定されている。間部侯の紋所「丸に三つ引」が付けられている。
本堂は間部詮房の百回忌に合わせて江戸で設計され、村上の大工の手で建築されたもの。
本尊は丈六の阿弥陀如来の坐像(木造)※ストリートビューの金色燦然の姿は、この地方には類のない大きな見事なもので、胎内仏は阿弥陀・観音・勢至の三菩薩である。

「奥の細道」の途中に芭蕉が訪れたお寺として知られている。村上に6月28日、29日と2泊したが、7月1日朝、乙村へ向かって出立の前に、この寺に参詣している。
榊原家の時に住職であった珂硯上人は、江戸にいた頃、松尾芭蕉の深川の自宅近くの霊厳寺を再建(1658)し、後に江戸玉川奥沢の九品仏で名高い浄真寺の開山した名僧であった。芭蕉は、江戸を発つとき、村上を訪れた際には浄念寺を訪ねようと考えていたと思われる。



間部詮房

寛文6年(1666)5月16日〔生〕- 享保5年(1720)7月16日〔没〕

寛文6年5月16日(1666年6月18日)、甲府で生まれる。はじめ猿楽師に弟子入りしていたが、甲府藩徳川綱豊の小姓に抜擢されてから運が開けた。
綱豊が後6代将軍家宣になると高崎藩5万石の大名に引き揚げられた。身分制の確立した江戸時代では、猿楽師から大名にまでなりあがった例は他にない。芸能出身者がこの地位にのぼった唯一の例である。
側用人新井白石の協力を得て、将軍家2代に渡って幕政を支えた名宰相であった。ところが、これが旧来の譜代大名や幕臣から反感をもたれることとなった。詮房にまつわる俗説が、講談などで語られるが、詮房を失脚させるために流されたものといわれる。
大奥にまつわる事件など、信ぴょう性の乏しいものである。
8代将軍徳川吉宗も、詮房の功績を無視することもできず、高崎から村上への領地替えは行われたが、お家の取り潰しにも合わず、間部家は幕末まで続くのである。





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