狐の嫁入り屋敷 The house of Kitsune no yomeiri 阿賀町




@じゃらん
その昔、津川は会津街道と阿賀野川舟運を結ぶ要衝で、さまざまな人や文化、物資が行き交っていた。
狐の嫁入り屋敷は“狐の嫁入り行列”の出発地に程近い津川市街地の一角にある、地域の人々と旅人が素敵な物語をつくる場所となっている。
屋敷の敷地は、かつて江戸時代には会津藩の代官所がおかれ、また明治以降も行政の中心となっていた場所である。敷地内には津川代官所跡の碑がある。
建物には大径の地元産スギがふんだんに使われ、見る者を圧倒する。館内では狐火をテーマにした映像や狐の面づくりなどが体験できるほか、狐にちなむ軽食や地元の工芸品などのお土産も販売されている。
また、裏手の庭からは津川のシンボルである麒麟山を正面に望むことができ、近くには船運を支えた河港跡があり往時が偲ばれる。





津川河港跡

江戸時代、津川は会津藩の西の玄関口で、新潟から阿賀野川舟運によって西廻り塩や海産物などが運ばれ、津川で陸揚げされ若松まで街道輸送されていた。一方、会津街道から運ばれてきた藩のご廻米や産物を船に積み荷して新潟へ輸送するという、津川は水陸輸送の中継地として栄えた港町である。
その船着場を『大船戸』と呼び、付近には、船番所、藩の米蔵・塩蔵・蝋蔵、問屋などがあり、150隻ほどの船が発着し、船荷を積み下ろしする丁持衆が100人も働いていたという。そのような賑わいから日本の三大河港と称されていた。
明治18年(1885)、福島県令三島通庸が三方道路を開削し、越後まで阿賀野川沿いに道路が開通した。

津川港甚句

イヨ川の港で栄えた津川
やんませい大やぐら
出船入船五百艘
やんませい大やぐら
わたしゃ阿賀の川
舟のり稼業
浪も荒いが気も荒い

しかし、当時の道路状況では舟運は物資輸送の効率性が良いことから水量の増減に対応できる新しい『新河戸』が建設された。
大正初期まで塩、海産物などの陸揚げ、薪炭、木材、特産物などの積荷港として活用されたが、鉄道の開通によって衰退し、筏流しの拠点港として維持されてきた。その後、下流に揚川ダムが建設されるに及んで、その機能を失なった。
麒麟橋の上流左岸に階段の新河戸の乗船場が残り、往時の面影をとどめている。
当時の水上安全を祈って歌い踊った「津川港甚句」は今に歌い継がれている。
またここから川面に映る造形の美はなんともいえない心の安らぎを与えてくれる。
























狐の嫁入り屋敷 津川河港(大船戸) 津川河港(新河戸)