黒滝城 Kurotaki Castle Ruins 弥彦村



黒滝城は西蒲原郡弥彦村にある。弥彦山と国上山の間、麓集落から城川をさかのぼること西へ約2キロ、標高246.4mの「要害」に残る古城が黒滝城である。黒滝城登山口から登ること10分、本丸跡に至る。
平時の政庁兼居住地にあたる館は「麓」集落の小字「楯」「館」にあった。有事の際篭城するための山城(要害とよぶ)に本城を備え、西方の剣ケ峰(292.4m)に出城を備えるという二本立てからなっている。
本丸は「天神曲輪」とよばれる長さ約30m、幅約12mの狭長な曲輪で周りの曲輪より10m高く屹立しており、ほかに吉伝寺曲輪と大蓮寺曲輪をはじめ多くの曲輪が存在する。水脈は桜井の井戸、竜ケ沢の泉、鷲沢の井など豊富である。
天険な地形を巧みに活用しながら構築された山城であり、また日本海沿岸から越後平野に抜ける交通の要衝にあるため中越地方支配者の重要拠点として位置づけられていた。
城の始まりは、鎌倉時代の小国氏の築城による。南北朝の動乱時代(14世紀中頃)、南朝方の小国政光一族がここを本拠地に、北朝方と抗戦して破れたという。
1545(天文14)年10月、守護上杉家の老臣黒田和泉守秀忠が春日山城で長尾景虎(後の謙信)の兄長尾景康・長尾景房を殺害して黒滝城に籠城した。守護代長尾晴景が病弱で優柔不断なことから守護代の器でないと見こし、謀反を起こしたといわれる。
春日山城危機の報に長尾景虎(後の謙信)は「家国の瑕瑾」と憂い、討伐に向かった。恐れた秀忠が「僧となり他国へ行くので、生命だけは助けてくれ」と助命嘆願したので許した。
ところが翌15年2月、再び黒滝城に籠城。長尾景虎(後の謙信)は守護上杉定実の命で黒滝城へ出撃、黒田一族をことごとく切腹させた。この戦功で長尾景虎(後の謙信)の武名が一躍高まった。
長尾景虎(後の謙信)は、上杉家の重臣山岸出雲守光佑を城主とし、以後山岸宮内少輔秀能・山善左衛門尉慶綱らが城主となった。
1578(天正6)年、上杉謙信の死後、御館の乱が起こった。城主山岸秀能(光佑の長男)は一族の山岸光祐、村山慶綱(光佑の次男)らと上杉景勝に味方し、上杉景虎軍と蒲原平野各地で戦った。黒滝城は西蒲原における景勝軍の拠点であった。「御館の乱」を克服した上杉景勝は、春日山城を主城とする支城網を越後全域に布置し強固な城番制度を確立するが、黒滝城は依然、中・下越の交通上の結節点として重要視した。天正9(1581)年、新発田重家が反乱を起こした際も、景勝方の重要な拠点として機能した。
1598(慶長3)年、景勝の会津移封で山岸も同行し、廃城となった。(案内図)
























黒滝城跡 剣ケ峰の砦 駐車場