薭生 城 小千谷市
小千谷駅のすぐ東側に盛り上がる、海抜260m余の城山に残る山城跡。今も山頂部に、本丸跡に推定される平坦地や、その四方の尾根を区切る空堀跡が遺存する。 中世、越後国守護上杉氏に仕えた 源頼朝から御家人として重視されたが、鎌倉時代に入って、北条氏が力を強めると、圧迫を受けるようになり平子氏は関東を離れ、越後に領地を有した薭生に移ってきた。 室町時代に入ると、平子氏は守護上杉氏の重臣として、守護代長尾氏と共に上杉氏を支えた。 しかし、室町時代中期越後に起こった永正の乱では、平子朝政は、永正4年(1507)上杉房能をたすけて長尾為景(謙信の父)と戦い、敗れて関東に逃れる途中、松之山で為景の手勢に取り囲まれ、房能とともに自刃して果てた。 その後、朝政の子孫太郎房長は、越後の実権を握った守護代長尾為景に忠誠を誓った。また上杉謙信に従い、関東出兵や能登七尾城攻めで手柄をたてた。 薭生城と時水城の興亡
上杉謙信の死後の御館の乱では景虎方についたため、景勝方に滅ぼされ、平子氏は同市蘭木に逃げたという。城は廃城となった。時水城は小千谷市と長岡市小国地区との境にある、城山(標高384メートル)の山頂と、東方に分岐した尾根に築かれた山城跡。本丸から三方に走る尾根にも数か所の郭が整然と見られる。夏季の間だけ利用されたことから夏城ともいった。 南北朝時代に新田氏の将、小国氏の砦であったといわれており、さらに正平年間(1346年~1370)、関東管領で越後守護の上杉憲顕の命により家臣の曽根氏が支配していたと伝えられてる。 天文21年(1552)、時の城主曽根五朗左衛門は謙信の命を受けた平子孫左衛門に攻められ、落城した。当時、曽根五朗左衛門は上田庄の長尾氏の与力となっていたが、謙信の姉婿政景が謙信に敵対し緊張した時期であった。 平子孫左衛門は、曽根氏を攻め滅ぼしたが、この時、平子氏の兵数百名が、地獄谷(小千谷市桜町地藏平)で曽根氏によって謀殺されている。 薭生城落城物語
上杉謙信の死後、養子景勝と景虎の間で御館の乱起こった。薭生城の城主平子孫太郎は、景虎方についたため為、景勝の大軍に囲まれた。 豪勇で知られた孫太郎の守る薭生城は陥落しなかった。景勝は一計を案じ薭生城に詳しい百姓を呼んで、「抜け道から城の裏手にまわって火をつけろ」と命じた。 暴風の夜、火の手があがったのを合図に景勝軍が城を総攻撃した。 孫太郎は防戦をあきらめ、家臣と共に裏の尾根伝いに蘭木(うとぎ)の沢へ逃れた。谷の中腹に隠れ住んだという。 🔶城山(薭生城)
🔶城山(時水城)
|
城山(薭生城) 城山(時水城)