赤田城跡 Akata Castle Ruins 刈羽村


(赤田古城)

曽地峠の赤田トンネル柏崎側の出口から尾根の標高156mにある赤田古城とその北方の標高164mの独立峰に堅固な山城赤田城は築かれた。赤田古城がある尾根先端に赤田町方集落が、赤田城の尾根下には東福院と赤田北方集落がある。

赤田古城は鎌倉幕府から赤田保の地頭職を得た嵯峨源氏流渡辺氏の居城とされる。渡辺氏は赤田町方に居を構え、赤田氏を名のるが、後に斎藤氏に滅ぼされたと伝えられている。

(赤田城)

赤田城は赤田氏を滅ぼした斎藤氏によって築城された。同氏は室町後期上杉氏に略属し、上杉謙信時代その執政として重んぜられ、景勝時代にも功労があった。標高164mに本城を持ち、城山の中央高所に本丸および付属部からなる中枢部を設け、ここから星形に派生する尾根に多数の曲輪と要所を掘り割った空濠で防御をほどこしてある。
慶長2年(1597)、城主斎藤景信が上杉家から追放となり、赤田城は廃城となった。
専徳寺から登る道が大手であった。本丸跡には「斉藤下野守朝信城祉」と刻まれた石碑が建っている。

(斉藤朝信)

大永7年(1527)? 〔生〕- 文禄元年(1592)〔没〕

斎藤氏はここを本拠に守護上杉氏へ臣従した。代々下野守を名乗った。主君上杉謙信・景勝に仕え重臣を勤めた斉藤朝信が有名である。

1559年(永禄2)、斎藤朝信は長尾藤景、柿崎景家、北条高広と共に長尾景虎(謙信)政権下の政務奉行を務め、謙信の「天正3年(1575)軍役帳」によれば、上杉家中8番目に多い213名の軍勢を率いて上杉軍団の一翼をになった。

謙信からの信頼は絶大で、武道に通じ、多くの武勲を挙げた。また、謙信は強敵と思われるところには朝信を差し向けた。また武勇の誉れ高く、「越後の鍾馗」と呼ばれたという。1561年「第四次川中島の戦い」では武田晴信に扇動された一向一揆に備えるため山本寺定長とともに越中国に出陣して長尾景虎(謙信)本隊の北信濃国侵入を支援した。
永禄7年(1564)の第五回川中島の合戦で、川中島四郡の帰属を決める最後の一騎打ちで勝った猛将長谷川与五左衛門は斎藤氏の家臣である。上杉軍の小男長谷川与五左衛門秋重と武田軍の豪傑安間彦六弘重が一騎打ちを行い、合戦の勝敗を決めることとなり、格闘の末、長谷川がすばやく刀を抜いて安間を討ち取り、謙信から金帛を賜ったという。
御館の乱時には、景勝方につき、上杉景虎を支持をしていた甲斐の武田勝頼との外交交渉にも当たって景勝陣営に引き込んでいる。また反景勝の北条景広を破り、朝信の子景信が北条城を与えられている。景勝が越後統一後、朝信に対して厚く恩賞を与えたことで、3367石の知行を得て、202名の軍勢を担当した。
織田信長が侵攻すると北陸方面の柴田勝家らを魚津城などで迎え撃った。
朝信は織田信長が本能寺の変で亡くなったのち隠居し、文禄元年(1592)頃に死去したともいわれる。朝信の墓は東福院にある。

(斎藤景信)

朝信の子の乗松丸は、朝信の死後に景信と名乗り家督を継いだ。新発田重家攻めなどで軍功を立てた。
慶長元年(1596)、京都を襲った大地震で完成したばかりの伏見城が倒壊し、その復旧が引き続き直江兼続に命じられた。景信は普請において不手際があったとして(人夫徴発の割当について兼続に不満を訴えたためという)勘気を蒙り、慶長2年(1597)、須田満胤・本庄顕長らと共に上杉家から追放され、赤田城は廃城となった。景信は村上に隠棲していたといわれる。
しかしこれには裏があり、斎藤景信が越後国に残ったのは上杉景勝の越後復帰を図るための深慮遠謀であったとされている。
30年後、景勝の後を継いだ上杉定勝の代に、斎藤景信の嫡男斎藤三郎兵衛は米沢城に移り上杉定勝に仕え300石を領した。

伏見城普請

文禄3年(1594)、豊臣秀吉は、天下普請で伏見城の築城を朝鮮に出兵していない東国諸大名に命じた。上杉家に対しては中でも難工事と目された舟入場の普請が命じられた。
越後の上杉家にも1月20日 「4000人を召し連れ、上洛すべし」という朱印状が届いた。
直江兼続は、伏見城総奉行の1人に任じられ、2月25日、越後人夫4000人を引き連れ春日山城を進発した。「上杉の意地と誇りを天下に示せる絶好の機会だ」と直江兼続自ら監督する。完成後秀吉より普請場御殿を賜る。

(東福院)

赤田城ふもとの東福院は寛政2年(1461)に斎藤氏が曹洞宗の拠点、村上耕寺4世を招いて建立した。代々の菩提寺として、斉藤朝信夫妻や長谷川与五左衛門の墓もある。(案内図)






















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