焼鮒の池 新潟市



越後の国府へ流されていた親鸞は、布教のため下越地方を訪れ、鳥屋野潟で草庵を営み、3年間ほど滞在したといわれている。最初はいくら説教しても誰も相手にしなかったが、根気よく布教を続けた結果、住民の方から親鸞を招待して、説教を聞くようになったという。
ある日、いつもの様に近在を布教していると、曽野木で日が暮れてしまい、村人はある家へ案内し説教を聞いたという。
説教が終わると、村人たちは、食事として酒と焼鮒を出した。親鸞は村人たちの厚いもてなしに感謝したが、出家の身、酒や魚を口にすることが出来ず、杯にちょっと口をつけただけで、焼き鮒を近くの池に放したという。するとこの焼鮒は急に動き出し、ヒレをふりながら池の底へ消えていったという。その後、この池に棲む鮒は、全部こげたような色をしていたといわれる。越後七不思議の一つとされる。
この池は、曽野木の山王神社(後改称し現在山田神社)にあった小さな池だといわれるが、現在この池は埋められ跡形もない。
平安時代からこの神社の神官であった田代家の門前に、親鸞旧跡の碑がある。また親鸞が鮒を池に放すとき、袈裟を近くの榎の木に掛けたといわれる。その榎の木が江戸時代に台風で倒れた際、幹を切ったところ、その切株に焼鮒が現れたという。切株を輪切りにした板※ストリートビューが田代家に保存されている。


🔶誓慶寺の焼鮒
1211(建暦元)年、親鸞に御赦免が出されて見送りの宴が、かつて護摩堂城主であった栗林家で催された際、酒の肴にと差し出された焼鮒を親鸞が山王神社の池に放したところ、焼鮒が生き返って泳いだという。その鮒には串と焼跡があったといわれる。その後、池のそばにあった榎の木を切ったところ、切り株に焼鮒の形と親鸞の姿が現れ、これを親鸞の旧跡として堂内に護持し奉っている。




















焼鮒御旧跡の碑 誓慶寺 山田神社