高橋源助塚 Takahashi Gensuke Mound 新潟市



2代目高橋源助は長岡藩領曽根組見帯村庄屋を務めた。その先祖はかつて武田信玄の家臣であったが、主家滅亡後越後へ移り、曽根村(西川町)で名を高橋と改め百姓となった。父の代に人柄や優れた知識から村の元締めをするまでの信頼を集め、割元となり初代高橋源助と称した。
曾根村(西川町)は西川流域の低湿地帯の中にできた自然堤防上の村で、水の便が悪くなかなか思うような収穫量を得られなかった。連年日照りのときは旱魃に苦しんでいた。
源助は割前村(巻町)地先の西川から用水路掘削引水を計画するが、西川の水利を利用する割前村付近の村々が強く反対したため、長岡藩から初めは承認されなかった。
天和元年(1681)源助は用水路通過予定地である関係村々の村役人の同意を取り付けて、西川から6キロの用水路を掘削する願いを長岡藩に提出した。しかし堰建設予定地だった割前村庄屋が役人の中根善太郎に工事を不許可にするようを饗応した。
長岡藩からの許可がなかなか下りないので、高橋源助は「失敗の折には自らの首をかけて責任を取る」という約束のもとにようやく開削の許可を得て樋管工事に着手、2か月の工事期間をかけて、10月9日に竣工した。
しかし竣工の日、工事の完成を快く思わなかった役人がこっそり樋管にはめた板により妨害したため水が通らなかったた。計画は失敗とされ、源助はその場で打ち首となってしまう。しばらくすると、打ち首で川に沈んだ源助の首がはめ板を咥え、恐ろしい形相で樋管の先から水と共に勢い良く流れ出た。源助の首は筒尻まで流れ着き、そこに首塚が作られ、その裏には源助の墓もひっそりと佇んでいる。
曾根東裏用水路を源助筒といい、地元では義民として尊敬を受けている。大正3(1914)年には講談「一念 大庄屋高橋源助翁列伝」で広く知られた。現在も菩提寺の金剛寺で「源助まつり」が営まれている。


❏〔所在地〕 新潟市西蒲区曽根1371





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