お春瞽女之碑 Oharu blind female street singer Monument 出雲崎町
寺泊と出雲崎の間は北陸街道であったが、かつては瞽女が通う瞽女街道でもあった。この街道の途中に、勘吉の茶屋があり、お春はそこを住まいとしていた。冬の吹雪の日など瞽女たちの避難場所でもあった。この跡地には現在『お春瞽女之碑』がたっている。 お春は出雲崎で門付けを終わって寺泊へ帰る途中、吹雪で行き倒れとなり、死んでいたところを村人に発見された。村人は道路わきに葬ったが、高波にさらわれてしまったという。 「勘吉茶屋」の近く、国道402号の出雲崎町と長岡市(旧寺泊町)との境界部に架かる避溢(ひえつ)橋はかつては丸木橋が架かっていて、ここから海に落ち流された瞽女もいたという。 瞽女調査に訪れた洋画家斉藤真一氏は、この話を聞き、昭和50(1975)年、勘吉茶屋跡に「お春瞽女之碑」を建立した。 ≪現地案内看板≫
お春瞽女之碑 この石碑のある国道をはさんだ海岸は、現在浸食が進んできて砂浜が少なくなり道路近くまで波が打ち寄せているが、昔ここに茶屋が一軒あり、田も二反近くあったということである。 昭和二十二年の秋、盲目の「お春」が門づけ(人家の入口に立ってシャミ唄などを唄い生計を立てる)をしながら町を歩いていた。無心に唄うお春の唄声は、暗い世相に明るいほのぼのとしたものを呼び戻してくれるようであった。 お春は、人里離れた落水宿屋の雨がしのげるだけの宿に泊まっていたが、人柄もよく唄もうまかったので町の人気者となりかわいがられた。しかしその年の冬は大雪で、お春は出雲崎から帰る途中、久田の先の砂山で吹雪のために倒れ、そのまま死んでしまったという。 この話を聞いた洋画家斉藤真一氏が、昭和五十年宿跡に「お春瞽女之碑」を建立された。碑文は作家の今東光師(当時は平泉中尊寺住職)の筆である。 出雲崎町 ≪越後瞽女≫(歴史)瞽女とは 、「御前」 がなまったものともいわれて、「ごせさ」「ごぜんぼ」「ごぜんさ」などと呼ばれ、三味線を携えて季節を定めて農村・山村のの各戸を門付けしながら歌や踊りを職業として、各地を漂白した盲目の女性集団である。その歴史は古く、室町時代の初期『七十一番職人歌合』によると、盲御前が鼓をうちながら語っていたらしいことがみえる。 かつては関東や北陸から九州まで広く分布していたが、諸国のものは早くに衰退し、越後は、雪国で出稼ぎが多いという風土からも定着したとみられる。 江戸時代を通して、明治中頃が越後瞽女の最盛期であったが、集団の数も多く、瞽女の総員数も膨大にふくれ、広く遠隔の地まで旅興行する実跡を示した。 長岡瞽女は藩主牧野家の保護を受け、本邦最大の規模をなし江戸末期から明治初期にかけて急増し、明治20年(1887)代のピーク時には約400人におよんだ。江戸時代には藩に保護された高田瞽女は明治の最盛期には100人足らずの瞽女がいた。 主流をなしたのは、江戸時代には藩に保護された「高田瞽女」と「長岡瞽女」であったが、2大集団のほか、糸魚川・刈羽・三島・蒲原など、地域の名で呼ばれる弱小の瞽女集団が存在した。 (高田瞽女)この二つの 「瞽女仲間」は組織のあり方などに大きな違いがある。高田瞽女は、親方(師匠)が家を構え、弟子を養女にして自分の家で養なった。親方はヤモチ(屋持)と呼ばれ、明治の末に17軒、昭和の初期に15軒あった。これらの親方が座を作り、いちばん修業年数の多い親方が「座元」となり高田瞽女の仲間を統率した都市集住型組織。 (長岡瞽女)一方、長岡瞽女は 「家元制」である。長岡の町に元締めともいえる瞽女屋があり、その主人は親方衆の中から選ばれ、代々「山本ゴイ」を名のり、総取締りに任じていた。長岡の瞽女屋で修業して免許をもらった師匠は、各地で弟子を養いその地方で「組」を作り31組の瞽女集団があった。組の中には中条組50人、福井組30人のように大世帯もあった。組頭は長岡の大親方と結ばれ、地方の瞽女を統率した村里在住型の組織であった。違いは、瞽女唄の唄い方にも表れる。町に暮す高田瞽女は、抑揚がなだらかで、表現も優しく、他方、長岡瞽女は、りんりんと力強く唄う。野性的な声は『鉄砲声』とも呼ばれていた。 (稼業)今日と違って医学や福祉制度、娯楽機関などが遅れていた頃、何かの病気で目が不自由になった女性の職業といえば、鍼・灸・按摩で身を立てるか、唄と三味の芸を習って瞽女になるよりしかたがなかった。瞽女は6~7歳の頃親方に入門し、祭文松坂(段物)・口説・門付け唄・端唄・長唄・常磐津・清元・新内など、いわゆる瞽女唄を教わった。厳しい修行と躾のもと18~21年の長い年季奉公に耐えて無事に修行を終えると、「年明きぶるまい」が催され、一人前の瞽女として扱われ、弟子をとることも許される。一方、男子禁制の厳格な掟があり、年季中に不行跡を働くと修行年限を延長する「年落しの罰」を受ける。 毎年春には瞽女の大祭である妙音講が盛大に催され、瞽女の「御縁起」(『御条目』)が読誦された。これは瞽女社会の統制をささえる重要な行事であもる。 瞽女は1年のうち300日は旅をしたといわれ、巡業範囲は県内はくまなく、関東一円・甲府・信州・東北南部にも及んだ。 文政11年(1828)11月12日三条地震が発生し三条の町が壊滅した際には、その悲惨な状況を、瞽女たちが瞽女唄にして唄ったことで各地に伝わり、江戸でもおおくの人が状況を知ることとなった。 夏は県内の農山村を巡業し冬には「冬ぐらしにいく」と称して、主に関東方面へ出稼ぎに出かけた。旅姿は、大きな風呂敷包みを背負い、つま折れの笠をかぶって、蹴出しに草鞋ばき、そして三味線を抱えていた。「ごめんなんしょ!」の挨拶で、家の人の在宅が確かめられると「ベン、ベン」と三味線を鳴らし瞽女唄を唄った。 旅先の村々には無償で瞽女たちを泊めて世話をしてくれる家があり 「瞽女宿」と呼ばれていた。おもに地主などの旧家が瞽女宿を引き受けた。 瞽女たちは宿に到着すると、荷物を置いて近在の家々を戸口から戸口へと門付けして回り、夜になると宿に集まってきた村人たちを相手に段物や口説を心ゆくまで披露し、喜捨の米や祝儀をもらった。現金のほか、米や果物などの農産物、土地によっては真綿や和紙をもらうこともあったという。 村々も娯楽の少ない時代であったので、瞽女の来訪を楽しみに待っていた。瞽女は娯楽の供給者のみならず、巫呪的な来訪者として、また招福除災の俗信の対象者としても受け入れられた。 しかし、昭和30年(1955)代、高度経済成長期になると、ラジオやテレビが全国通津浦々まで浸透し、簡単に娯楽が手に入れられるようになり、また掟の厳格さ、衛生思想の普及、教育の充実などが原因で瞽女は急激に減少していった。 ☯2020年(令和2)、「最後の瞽女の一人」とも称される小林ハルさんをモデルとした映画「瞽女 GOZE」(滝沢正治監督・主演 吉本実憂)が公開される。 ≪ゆかりの施設・ゆかりの土地≫
※山形県米沢は瞽女をあたたかく迎えてくれる土地柄で、多くの瞽女が米沢街道の峠を越えて足跡を残している。
≪関連する人者≫
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