二宮家 Ninomiya House 聖籠町
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嶋岡七郎編著の「新潟県農地改革史」によれば、大正13年(1924)50町歩以上の地主は、新潟県全体では、254を数えた。千町歩を超える大地主は北蒲原の市島家、白勢家、斎藤家、中蒲原の伊藤家と南蒲原の田巻家5家あった。 二宮家は、新発田藩領蓮潟興野の名主職、のちに代々庄屋格に昇格し、苗字帯刀を許された大地主となったが、県内の大地主の中では特異な存在であった。 二宮家の地主経営の性格は、その小作管理に反映し、「小作争議を起こしては得はない」という計算のもとに、小作人の未納米の処理もすぐ訴訟をもって強硬に取り立てることはせず、冷静に長期にわたって督促して回収してゆくという姿勢を取ったので、他の地主に比して訴訟による調停件数が極端に少なかった。 また、土地への執着が薄く、土地の集積を近在の土地に集中し、資力のすべてを株式投資に向けた。所得の規模で比べると、市島家も陵駕するほどであったという。 また、太平洋戦争中、昭和19年(1944)、国の自作農創設の動きに協力し、所有地の三分の二を解放した。 こうしたことから、多くの大地主が戦後の農地改革によって、大きな打撃を受け没落し、土地建物が人手に渡ることもあった中で、二宮家の邸宅、庭園は今も自力で管理され、昔日の面影を良く保っている。 弁天潟を見渡す敷地は約3,000坪、建物の面積は建坪で約250坪ある。この古い日本家屋は明治8年(1875)6月に落雷により消失、その後9年かけて、明治17年(1884)、約400坪ほどの庭園を含めて完成したとされる。 建築面積230坪(756㎡)と大規模な主屋は、北面に大玄関、南面に上段の間、西南に奥の間、東南に茶室を配する他、東方には渡り廊下で連絡する客用風呂場を設けている。 主屋の西側には、昭和10年(1935)に増築された、建築面積48坪(158㎡)の寄棟造木造2階建で、切妻造の玄関が付いた新奥座敷を配している。 また土蔵が、主屋の西側に6棟あるほかに、県道を挟んで北側に2棟の米蔵が建っている。 県道に面した表門と高く巡らせた塀は往時の豪農の邸構えを示している。現在でも子孫が、建物を使ってに暮らしている。 5棟の蔵を含む11カ所の建造物群は国登録有形文化財(平成18)になった。年間を通して一般公開はされていない。ストリートビュー 「静勝園」と名づけられている日本庭園の目の前には広大な弁天潟が広がり、座敷から庭園と弁天潟を一望できる。奥行きがあることから、スケールの大きな庭園として評価されている。 弁天潟はかつて新発田藩の所有であったが、明治4年廃藩の際、藩より譲り受けたもので二宮家の庭園の一部を成していたが、現在では聖籠町によって管理されている。また廃藩にあたり新発田藩から白勢家に下賜された数々の骨董、名石が、明治10年(1877)代の白勢家の崩壊とともに二宮家に移ってきた。二宮家庭園は、新発田藩の史跡ともいうべきものである。 20年前から趣味で始めたバラの園は毎年その規模を拡大しており、現在では5月から6月にかけてのバラの満開シーズンのみ、パラ園とあわせて日本庭園も一般公開されている。 ≪二宮家の略歴≫
・初代九兵衛
🌌弁天潟風致公園 ※GOOGLE 画像
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二宮家
二宮家ばら園
静勝園

