佐渡に流された京極為兼 Kyogoku Tamekane exiled to Sado 佐渡市



建長6年(1254)〔生〕- 元徳4年(1332)3月21日〔没〕

京極家の祖京極為教の子に生まれる。藤原俊成、定家以来の歌楽の家系である。従兄の為世とともに祖父為家から和歌を学ぶ。幼少時から主家の西園寺家に出仕して西園寺実兼に仕えた。

弘安3年(1280)には東宮煕仁親王(後の伏見天皇)に出仕し、東宮及びその側近らに和歌を指導して京極派と称された。
伏見天皇が践祚した後は政治家としても活躍したが、その積極的、革新的な生き方は鎌倉幕府後期皇位継承をめぐる北朝と南朝との政争の渦に持明院統側公家として大きな影響を及ぼした。
当時皇室は「大覚寺統」(南朝)と「持明院統」(北朝)に分かれ、交互に皇位につくという取り決めがあった。持明院統の伏見天皇が弘安11年(1288)に即位すると、為兼は異例の昇進を遂げ、その年に蔵人頭、3年後に権中納言になっている。
伏見天皇が皇位継承の取り決めを破り自分の子を皇位に付けようとしたことから、為兼は北朝の長期政権をねらう中心人物としてみられ、幕府の手で永仁6年(1298)3月16日、45歳の時、佐渡国に配流となった。佐渡ではは、八幡宮の小堂に住まっていた。
後の世に、世阿弥が、為兼の配所であった八幡を訪れた時宮司から聞いた話が、世阿弥の『金島書』「時鳥」の段に記されている。
為兼が或るとき、ほととぎすが鳴くのを聞いて一首詠んだという。
『鳴けば聞く 聞けば都の恋しきに 此の里過ぎよ 山ほととぎす』
すると、ほととぎすが音を止めて、もう鳴くことはなかったという。(☛ 世阿弥)
為兼は佐渡でのさびしいあけくれに歌を詠んでいる。中に清々しい佐渡の自然を詠んだ歌がある。
『波の上にうつる夕日の影はあれど遠つ小島は色くれにけり』

為兼にとって歌はさびしさをなぐさめるものばかりではなく、京都召還への神明祈誓をこめたものであった。
たとえば、20首の歌を縦横につづり、その交わりの字をたどって読むと「南無白山冥利権現おもふことかなへたまへよ」と詠める。いわゆる名号歌である。白山冥利権現は、為兼の配所から雄姿をもって迫ってくる金北山であろう。
また、配所にあって、奈良の春日社に祈誓をこめた「百首」を作り、召還を待ち望んでいる。そして、この百首は帰京後春日社に奉納された。
『三とせふる 秋のうれへは春日野に 音なく鹿も思ひ知るらむ』
『この秋も また暮れはつる 身のうさは 鹿もともにぞ 音をなきにくる』
しみじみとした憂愁は深まっていった。鹿もともに嘆いているとして、ひそかに祖先の神のまします春日社に額ずくのである。

嘉元元年(1303)50歳の春に帰京が許されている。再び伏見院に仕え、程なく盛大な歌会を開いており、政治と和歌における為兼の実力のほどがうかがわれる。2年ほど経つと、權大納言に昇進している。

勅撰和歌集の撰者をめぐって二条為世と論争するが、院宣を得て正和元年(1312)に『玉葉和歌集』を撰集している。
翌正和2年(1313)、伏見上皇とともに出家して法号を蓮覚のちに静覚と称した。
正和4年(1315)、62歳の為兼は一族をひきいて盛大な春日大社詣りを行ったため、幕府によって行きすぎた政治的な動きととらえられる。
12月28日、得宗身内の東使安東重綱(左衛門入道)が上洛し、軍勢数百人を率いて毘沙門堂の邸(上京区毘沙門町)において為兼を召し捕り、六波羅探題において拘禁する。
この時、日野資朝が、捕縛されて六波羅探題に連行される京極為兼の堂々たる態度を見て「ああ羨ましい、この世に生きた思い出には、あのようにありたいものだ」と言った話が語り伝えられている。(☛ 日野資朝)
翌正和5年(1316)正月12日には得宗が守護、安東氏が守護代であった土佐国に配流となり、帰京を許されないまま河内国で没した。歌人としても政治家としても、類まれな実力を発揮した人物であった。79歳の生涯であった。
『ふけてゆく月にかこちてわが涙老のならひにこぼれけるかな』

2度の流刑の背景には「徳政」の推進を通じて朝廷の権威を取り戻そうとしていた伏見天皇と幕府の対立が激化して、為兼が天皇の身代わりとして処分されたという説もある。

歌風は実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、沈滞していた鎌倉時代末期の歌壇に新風を吹き込んだ。『玉葉和歌集』『風雅和歌集』に和歌が入集している。なお歌論書としては為兼卿和歌抄が知られる。

  • 配流所

    • 〔所在地〕 佐渡市八幡 八幡宮



🌌京極為兼所縁の地

禅長寺

赤泊港を背にゆるやかな坂道を上る高台の真言宗の寺。創建は天長4年(827年)頃といわれる。京極為兼が佐渡に流された時、往復の旅宿であったといわれる寺。為兼がこの寺での祈願で帰京できたところから、奥の院の秘仏は“帰郷観音”の名で信仰され、馬堀法眼喜孝画伯が寄贈した佐渡七福神の一つ京極毘沙門天図が安置されている。
  • 〔宗派〕 真言宗
  • 〔所在地〕 佐渡市赤泊641
  • 〔問い合わせ先〕 ☎0259-87-2054


  • 紅葉
    境内の魔尼殿(地蔵堂)のそばにある、お地蔵様と色づいたモミジの風情が心を和ませてくれる。
    〔見頃〕11月上旬


遊女初君の歌碑 Monument to Hatsukimi,a harlot 長岡市

永仁6年(1298)、時の権の中納言藤原為兼卿は、執権北条貞時に陰謀の疑いありとして捕えられ、佐渡へ遠流となった。
風待ちのため寺泊港で38日間滞在した。
この時、為兼卿に身の廻りのお世話のため、お仕えしたのが才色兼備をうたわれた遊女初君であった。
為兼卿は佐渡へ出発の朝、名残りを惜しみつつ、歌を贈った。
『逢うことを またいつかはと 木綿たすき かけしちかひを 神にまかせて』
初君は、一首を詠んでこれに返したという。
『 もの思い こしじの浦の白波も たちかえるならひ ありとこそきけ』
(寄せては返す日本海の白波のごとく、 いつの日にか必ずあなたは許されて帰ってくることができるでしょう)
彼女の切々たる心情を詠んだものです。
為兼卿は、5年後に許されて都へ帰り、正和2年(1313)に勅撰の「玉葉和歌集」を完成させた。その時、初君のこの和歌を選び、「為兼佐渡国へまかり侍りし時、越後国てらどまりと申す所にておくり侍りし」と記し「遊女 初君」として収録し納められている。越後人で勅撰和歌集に歌が収められたのは、初君がただ一人と言われている。
この歌碑は享和2年(1802)、日本海を見下ろす愛宕神社境内に建立された2代目である。平成15年(2003)、長岡市指定文化財(記念物・史跡)に指定されている。初代のものは旧歌碑として聚感園にある。(☛ 聚感園)