佐渡に流された京極為兼 Kyogoku Tamekane exiled to Sado 佐渡市



建長6年(1254)〔生〕- 元徳4年(1332)3月21日〔没〕

京極為兼(きょうごくためかね)は、建長6年(1254)に生まれ、元徳4年(1332)3月21日に79歳で没した。鎌倉時代後期を代表する歌人であり政治家であり、その生涯は宮廷での栄達と二度の流罪という劇的な運命に彩られている。とりわけ永仁6年(1298)から約5年間に及んだ佐渡配流は、都を恋う悲しみを数々の名歌へ昇華した時代として知られ、日本中世文学史を語るうえで欠かせない存在となった。

名門に生まれ、歌人として頭角を現す

為兼は、藤原北家御子左家の流れをくむ京極家の祖・京極為教の子として生まれた。家系は藤原俊成、藤原定家以来、和歌を家業とする名門であり、幼少から歌の世界に親しんで育った。祖父・藤原為家から直接和歌を学び、従兄の二条為世とともに歌才を磨いた。
若くして主家である西園寺家に出仕し、西園寺実兼に仕えたことで宮廷社会へ足場を築く。和歌は単なる文学ではなく、公家社会では政治的教養そのものであり、歌人として認められることは出世への道でもあった。
弘安3年(1280)、東宮煕仁親王(後の伏見天皇)に出仕すると、その才能は一気に開花する。東宮や側近たちへ和歌を教授し、この頃から為兼を中心とする歌風は「京極派」と呼ばれるようになった。
京極派は、当時主流だった技巧重視の歌風とは異なり、実際に見た景色や心の動きを繊細な言葉で表現することを重視した。自然の光や色彩、移ろう感情を鋭い感覚で描くその作風は、後の和歌史に新しい流れを生み出すことになる。

伏見天皇の側近として異例の出世

弘安11年(1288)、伏見天皇が即位すると、為兼は天皇の厚い信任を受け、異例ともいえる昇進を重ねた。その年に蔵人頭となり、わずか3年後には権中納言へ昇進する。文化人としてだけでなく、朝廷政治を担う重臣へ成長したのである。
しかし、この頃の朝廷では深刻な皇位継承問題が続いていた。皇室は後深草天皇系の持明院統と亀山天皇系の大覚寺統に分かれ、両統が交互に皇位へ就く約束となっていた。ところが持明院統の伏見天皇は、自らの皇統を長く存続させようとし、その政策を支える側近として為兼が重要な役割を果たした。
鎌倉幕府は両統の均衡を維持することで朝廷を統制しており、持明院統の勢力拡大を警戒した。その結果、為兼は政治的野心家として幕府から危険視されるようになった。そして永仁6年(1298)3月16日、45歳の為兼は鎌倉幕府の命によって佐渡国への配流を命じられる。宮廷の中心にいた公卿は、一転して日本海の孤島へ流されることになった。

佐渡・八幡で始まった流人生活

配所となったのは現在の佐渡市八幡付近で、八幡宮境内の小堂を住まいとしたと伝えられる。京都では歌会や政務に明け暮れていた日々が、海風にさらされる質素な生活へと変わった。牢に閉じ込められていたわけではなく、一定の監視のもとで神社への参詣や周辺を歩くことは許されていたと考えられる。
八幡周辺には白い砂浜が広がり、松林が風に揺れ、その向こうには日本海が果てしなく続いていた。島の中央には霊峰・金北山がそびえ、四季折々の姿を見せる。その雄大な自然は、流人となった為兼の心に深く刻まれていく。
約百年後、同じく佐渡へ流された世阿弥は『金島書』の中で八幡の景観を「白砂は雪のように輝き、松林の中に小堂が建つ」と描写している。世阿弥が見た景色は、為兼が暮らした風景そのものでもあった。

都への尽きない思慕

佐渡での日々を支配したのは、京都への尽きない恋しさだった。ある初夏の日、山からほととぎすの声が聞こえたとき、為兼は一首を詠んだ。
  • 鳴けば聞く 聞けば都の恋しきに 此の里過ぎよ 山ほととぎす
都では初夏を告げる風雅な鳥だったほととぎすも、佐渡では故郷への思いを募らせる存在になってしまった。「その声を聞けば都が恋しくなる。だから、この里を通り過ぎてくれ」という切実な心情が込められている。この歌には後日談がある。世阿弥が八幡宮を訪れた際、宮司は「為兼がこの歌を詠んで以来、この地ではほととぎすが鳴かなくなった」と語ったという。世阿弥は鳥にも心があるならば、為兼の悲しみに感じ入ったのだろうと記している。
史実というより伝承ではあるが、島人たちが為兼の悲しみを深く記憶し、語り継いできたことを示す逸話として知られている。
(👉 世阿弥)

佐渡の自然を歌に刻む

都を恋いながらも、為兼は佐渡の自然を鋭い感性で見つめ続けた。
  • 波の上にうつる夕日の影はあれど 遠つ小島は色くれにけり
夕日に染まる海面と、遠く霞む島影を描いたこの歌には、日本海特有の広大な景観が生き生きと表現されている。
京都では決して見ることのできない海の表情を前に、流罪の悲しみだけではない静かな感動を抱いていたことが伝わる。また、島の中央にそびえる金北山にも特別な思いを寄せた。金北山は古くから霊山として信仰され、白山権現との結び付きが語られていた。為兼は、この山を神仏の力が宿る存在として仰ぎ、帰京への願いを託すようになる。
自然を描く歌には、京極派らしい色彩感覚と空間表現があふれ、後の歌壇に大きな影響を与えた。

和歌を祈りへ変えた五年間

佐渡での為兼にとって、和歌は慰めであるだけではなかった。それは神仏へ願いを届ける祈りそのものとなった。特に知られるのが「名号歌」である。二十首を縦横に配置し、交差する文字を読むと、
  • 南無白山冥利権現おもふことかなへたまへよ
という祈願文になるよう工夫されている。
技巧を凝らした作品であると同時に、金北山を白山権現の霊峰として仰ぎ、帰京を願う切実な信仰の表現だった。
さらに奈良の春日社へ奉納するため百首歌も詠み続けた。
  • 三とせふる 秋のうれへは春日野に 音なく鹿も思ひ知るらむ
  • この秋も また暮れはつる 身のうさは 鹿もともにぞ 音をなきにくる
春日社の神使である鹿へ自らの嘆きを重ねながら、祖先の神々へ帰京を願ったのである。これらの歌は佐渡で書きためられ、帰京後に春日社へ奉納された。

島人との交流

為兼は完全に孤立していたわけではない。八幡宮の神職や土地の人々との交流があり、その記憶は百年以上後に世阿弥へ語り継がれている。配所で暮らした歌人として島人たちの印象に深く残り、その人柄や歌は地域の伝承となって受け継がれた。単なる流人ではなく、文化人として敬意を払われていたことがうかがえる。
約5年間に及ぶ佐渡生活は、政治家としては最大の挫折だったが、歌人として最も精神が深まった時代となった。

帰京と歌壇の頂点

嘉元元年(1303)、50歳となった為兼はようやく帰京を許された。京都へ戻ると再び伏見院に仕え、盛大な歌会を開くなど文化人として完全な復活を遂げる。ほどなく権大納言へ昇進し、政治的地位も回復した。
この頃、歌壇では京極派と二条派の対立が決定的となる。保守的な二条為世に対し、為兼は実感や感覚を重視する歌風を主張し、勅撰和歌集の撰者をめぐって激しく論争した。最終的に伏見院の院宣を得て、正和元年(1312)に『玉葉和歌集』の撰者となる。『玉葉和歌集』は技巧一辺倒ではなく、生きた感情や自然描写を積極的に取り入れた勅撰集となり、中世和歌史の大きな転換点となった。
翌正和2年(1313)、伏見上皇とともに出家し、法号を蓮覚、のち静覚と称した。

二度目の流罪

しかし、出家後も政治との関わりは続いた。正和4年(1315)、62歳の為兼は一族を率いて盛大な春日大社参詣を行う。幕府はこれを単なる信仰ではなく政治的結集と受け止めた。
12月28日、得宗家の使者・安東重綱が数百人の軍勢を率いて上洛し、毘沙門堂の邸宅で為兼を捕縛した。六波羅探題へ連行される際、その堂々たる態度を見た日野資朝は、 「ああ羨ましい。この世に生きた思い出には、あのようでありたい。」と語ったと伝えられる。
翌正和5年(1316)、今度は土佐国への配流が命じられた。その後帰京は許されず、晩年は河内国で過ごすことになる。
(👉 日野資朝)

晩年と残された遺産

元徳4年(1332)3月21日、為兼は79歳でその生涯を閉じた。
晩年の心境を映す歌として、
  • ふけてゆく月にかこちてわが涙 老のならひにこぼれけるかな
が伝わる。

二度の流罪については、伏見天皇が朝廷の権威回復を目指した政治と幕府との対立の中で、その側近だった為兼が身代わりのような形で処分されたという見方が有力である。しかし、その挫折こそが歌人としての成熟を生んだ。
京極派は実感を尊び、繊細で感覚的な表現を追求した。その歌風は『玉葉和歌集』だけでなく、後の『風雅和歌集』にも受け継がれ、中世和歌に新しい表現世界を切り開いた。
歌論書『為兼卿和歌抄』では、歌は形式だけではなく作者の真実の感情から生まれるべきものだと説いている。
特に佐渡で過ごした約5年間は、宮廷歌人だった為兼を、自然と祈り、そして人間の孤独を歌う成熟した歌人へと変えた。日本海の荒波を見つめ、金北山に祈りを捧げ、ほととぎすに都への恋を託した日々は、日本中世文学史において最も印象的な流人文学の一つとなり、政治に翻弄されながらも和歌への信念を貫いたその生涯は、今日なお多くの人々の心を引きつけ続けている。

  • 没後 年が経過しました。

  • 墓所
    〔所在地〕京都府京都市北区紫野東御所田町(京極寺)
  • 配流所

    🔹八幡宮 ※GOOGLE 画像
    佐渡市八幡にある八幡宮は、永仁6年(1298)に京極為兼が佐渡へ配流された際、その配所となった場所として伝えられている。為兼は幕府の命によって京都から佐渡へ流され、約5年間にわたりこの地で暮らした。宮境内の小堂を住まいとしたとも伝えられ、華やかな宮廷生活から一転、日本海に囲まれた佐渡で孤独な日々を送ることになった。
    しかし、為兼は配流の苦しみを和歌に託し、八幡の自然や都への思いを数多く詠んだ。境内には為兼を記念する歌碑があり、その一つに「聞く人も 今なき世ぞ ほとゝぎす 誰をしのびて 過ぐるこの里」が刻まれている。また「三とせふる 秋のうれへは春日野に 音になく鹿 思ひ知るらむ」の歌碑もあり、佐渡で過ごした孤独と望郷の念を伝えている。八幡宮は、京極為兼の配流生活と歌人としての足跡を今に伝える、佐渡ゆかりの重要な場所である。
    • 〔所在地〕 佐渡市八幡



🌌京極為兼所縁の地

禅長寺 ※GOOGLE 画像

禅長寺は、赤泊港を背にして緩やかな坂道を上った高台に建つ真言宗の寺院で、創建は天長4年(827)頃と伝えられる。古くから赤泊の歴史と深く関わってきた寺であり、佐渡へ流された京極為兼ゆかりの寺としても知られている。鎌倉時代後期、和歌の名門に生まれ、伏見天皇の側近として活躍した為兼は、永仁6年(1298)に幕府によって佐渡へ配流された。その際、禅長寺は佐渡への往復の旅宿となったと伝えられている。為兼は佐渡滞在中、この寺で帰京を願う祈願を行い、その後、嘉元元年(1303)に帰京を許されたことから、寺の奥の院に安置される秘仏は「帰郷観音」と呼ばれるようになった。以来、帰郷や旅の安全、願い事の成就を祈る観音として信仰を集めている。為兼にまつわる伝承は、佐渡で過ごした約5年間の苦難と、都へ戻ることを願い続けた心情を今に伝えるものでもある。また境内には、佐渡七福神の一つに数えられる京極毘沙門天図が安置されている。これは佐渡ゆかりの画家として知られる馬堀法眼喜孝画伯が寄贈したもので、京極為兼との縁を後世に伝える文化資料としても興味深い。禅長寺は、古い寺歴に加え、京極為兼の配流伝承と「帰郷観音」への信仰が重なり、赤泊の歴史と信仰文化を感じさせる寺院である。
  • 〔宗派〕 真言宗
  • 〔所在地〕 佐渡市赤泊641
  • 〔問い合わせ先〕 ☎0259-87-2054


  • 紅葉
    境内の魔尼殿(地蔵堂)のそばにある、お地蔵様と色づいたモミジの風情が心を和ませてくれる。
    〔見頃〕11月上旬




遊女初君の歌碑 Monument to Hatsukimi,a harlot 長岡市

遊女初君の歌碑は、長岡市寺泊の愛宕神社境内、日本海を望む高台に建つ。鎌倉時代後期、京極為兼と遊女初君の心の交流を伝える歌碑で、平成15年(2003)に長岡市指定文化財(記念物・史跡)となった。現在の歌碑は享和2年(1802)に建立された2代目で、初代の歌碑は旧歌碑として聚感園に残されている。
永仁6年(1298)、時の権中納言・京極為兼は、鎌倉幕府の執権北条貞時から謀反の疑いをかけられ、佐渡へ遠流となった。その途中、海が荒れていたため風待ちをすることになり、寺泊港に38日間滞在したと伝えられる。この間、為兼の身の回りの世話をしたのが、才色兼備で知られた遊女初君であった。
佐渡へ出発する朝、為兼は初君との別れを惜しみ、一首を贈った。
  • 逢うことを またいつかはと 木綿たすき かけしちかひを 神にまかせて
これに対して初君は、
  • もの思い こしじの浦の白波も たちかえるならひ ありとこそきけ
と返したという。「もの思いに沈む越路の浦の白波も、寄せては返す習いがあるように、いつの日かあなたも許されて帰ってくるだろう」という意味を込めた歌で、別れを惜しむ初君の切々とした思いが表れている。
為兼はその後、約5年を経て帰京を許された。正和元年(1312)には勅撰和歌集『玉葉和歌集』の撰者となり、翌正和2年(1313)頃に完成させた。その際、初君の歌を「為兼佐渡国へまかり侍りし時、越後国てらどまりと申す所にておくり侍りし」と詞書を付け、「遊女初君」として収録したと伝えられる。越後ゆかりの女性の歌が勅撰和歌集に採られた例として、初君の歌は特に注目される。
この歌碑は、単なる文学碑ではなく、佐渡へ流される為兼と、それを見送った初君との別れを今に伝える記念碑でもある。日本海を望む寺泊の地に建つことで、寄せては返す白波に託された初君の願いと、二人の短い交流を現在に伝えている。(☛ 聚感園)

  • 〔所在地〕長岡市寺泊磯町(愛宕神社境内)





















京極為兼

京極為兼

  • 作者:今谷明
  • 出版社:ミネルヴァ書房
  • 発売日: 2003年09月