前島密 Hisoka Maejima 上越市



前島密 前島記念館

〔生〕天保6年(1835)1月7日 - 〔没〕大正8年(1919)4月27日
(幼少期)
1835年(天保6)1月7日、中頚城郡津有村字下池部(現 上越市 ,前島密記念館の所在地)で、この地の豪農の次男として生まれる。父は上野助右衛門、母は貞子といった。幼名房五郎といった。
母貞子は高田藩士伊藤源之丞(300石)の妹で、助右衛門の後妻となった。父は密の生まれた年の8月に死亡している。母は苦しい生活の中、密を厳格に教育したという。
1842年(天保13)8月、7歳の時、母方の叔父糸魚川藩医相沢文仲の養子となり、蘭学を学ぶとともに漢学を学んだ。
1845年(弘化2)10歳の時、池部の実家に戻り、高田の儒学者倉石洞喬の文武済美堂密の入塾時、塾生は 674 名もいた。藩士と庶民が共学し、とくに 15 歳と 16 歳の人々が多かった。漢学,兵法の教育と持論の形成、修業の一環として高田藩の文化的活動を支えた。また、倉石洞喬は高田藩の藩論を勤皇に導いた人物として知られている。(上越市東本町3丁目)で2年間、実家から通って漢学を学んだ。

(江戸出府)
1847年(弘化4)12歳の時に医学を志し、単身で江戸に出て、いろんな仕事をしながら、苦学の末、英語・数学・測量学や鉄砲術など様々な学問を身につける。
1858年(安政5)、23歳の時、名を巻退蔵と改め、 航海術を学ぶため箱館へ赴く。函館奉行所有の箱館丸等に乗って、日本の沿岸をつぶさに見て回った。
1859年(安政6)、24歳の時、函館で諸術調所蝦夷開拓に必要な知識や技術の開発と、函館に来航した外国人から知識を得て人材を育成するという目的があった。主な学問は蘭学、測量、航海、造船、砲術、築城、化学の技術を実地で学ぶことができた。が開設され武田斐三郎が教授役となると、密は、榎本武揚、井上勝などとともに学んだ。
1865年(慶応元)30歳の時、小松帯刀が開設した薩摩藩の洋学校(開成所)に招かれて蘭学講師となる。

(幕臣となる)
1866年(慶応2)3月、31歳の時、幕府の役人で密の親戚にあたる前島錠次郎の養子となり、来輔と名乗って牛込赤坂下町に住んだ。この年、幕臣清水与一郎の長女仲子と結婚、密より14歳若く、時に18歳であった。仲子との間に一男四女をもうけている。
幕臣となって開成所の教育教授や兵庫奉行で税関事務を司った。また将軍徳川慶喜に対して大政奉還と漢字廃止を建言した。
1868年(慶応4)、密は、明治維新後、勝海舟に抜擢されて駿河藩留守居役、遠州中泉奉行として活躍した。この時、徳川慶喜は駿府で謹慎していたが、幕臣渋沢栄一がヨーロッパ視察から呼び戻され駿府で慶喜に近侍していた。二人が出会うきっかけは、渋沢が駿河・中泉での密の仕事ぶりを見て、その能力を認めたからだといわれている。

この頃、新政府の参与大久保利通は、京都の因習を絶ち政務を一新し天皇親政の実現するため大阪遷都を建白した。
これに対し、薩摩藩の開成所で講師をしていた縁で、密は江戸遷都の利点を挙げ、大阪遷都に反対する意見書を大久保に送った。江戸城が無血開城されたことから大阪遷都論は立ち消えとなった。

(明治政府に招聘される)
1869年(明治2) 、34歳の時、明治政府の招聘により、民部省・大蔵省に出仕するが、これは渋沢栄一の推薦によるところであるといわれる。大隈重信が、まず渋沢栄一を大蔵省に招聘し近代化を推し進める事業を命じたが、渋沢は密をこの事業を進めるために必要な人材として推薦し、招聘している。
このころ、密に改名。また政府に対し持論の、漢字を廃止し、「かな」(ひらがな)を国字とするよう進言している。

✣前島密と大隈重信
大隈重信は明治政府の大蔵大輔に任命されると、大蔵省・民部省の実権を握り、官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立、鉄道・電信の建設などに辣腕を振るった。
新政府に出仕した前島密は大隈の部下となったが、大隈は密のとびぬけた実務能力を認め、鉄道事業推進に関連する業務を命じている。大隈は密の3歳年上で、2人の関係はこの後、深まってゆく。

1870(明治3)、35歳で駅逓権正となり、郵便事業の改革に当たることになった。これが密と郵便との出会いである。前島密は、大蔵省や内務省の官僚としての仕事をこなしながら、1870年(明治3年)から11年間郵政の長として、郵便事業の基礎を築き、後世「郵政の父」とたたえられることとなる。
この年、大蔵大丞上野景範に随行して、イギリスに渡航、郵便料金均一制、郵便両替法等を学び、郵便制度を運営するための設備で郵便物を運ぶ馬車、汽車、汽船や郵便局の建物などを視察した。

1871年(明治4年)3月1日、東京大阪間で官営の郵便事業が開始される。そして8月15日、イギリスから帰国し、同月18日には駅逓頭に就任し、江戸時代から続く飛脚制度を廃止した。それまで日本の通信を担ってきた「飛脚屋」に対しては、全国統一料金の郵便事業の必要性を説き、飛脚屋の団体を作らせ貨物の運送を担わせることにした。これが現在の「日通」となった。
1872年(明治5)7月には郵便網を完成させ、郵便制度の確立に尽力した。郵便事業は自宅の一部などを局舎に提供した人々の善意により、「郵便御用取扱所」(のちの特定郵便局)は凄まじい勢いで全国に増えていった。

1873年(明治6) 「まいにちひらがなしんぶんし」を創刊。
前島は江戸末期に将軍徳川慶喜に漢字廃止を提案するなど、国語教育にも一家言を持っていた。漢字を習う手間が国民の教育や学究の妨げになると考えた。新聞は売れずに約一年で廃刊になる。

1875年(明治8)に郵便貯金、郵便為替、外国郵便が開始され、東京と横浜の郵便局で貯金の取扱いを始めた。当時の日本の人々には「貯蓄」という考え方はなく、前島密はそれが貧困の原因になっていると考えた。英国で郵便局が貯金も扱っているのを見て、日本でもそれを取り入れて、人々の生活の安定と福祉の向上を図ろうとした。現在の『ゆうちょ銀行』である。
1877年(明治10)には万国郵便連合に加盟し、琉球郵便局や中国にも郵便局を開局し、海外との郵便連絡がスムーズに行われるようになった。

1880年(明治13)に駅逓総官となる。
郵便事業をスムーズに運営するため、輸送機関としての海運や鉄道事業にも力を入れた。開運関係では、この年船員救済のための日本海員掖済会等を設立している。大日本帝国鉄道郵便蒸気船会社、郵便汽船三菱会社(現在の日本郵船)の経営を支援している。

1881年(明治14)、大隈重信が下野し立憲改進党結成を決めると、これに協力するため密は官を辞した。大隈は密に対して政治家を目指すよう勧めたが、密は政治は性に合わないと断ったといわれている。
1882年(明治15)、大隈重信が東京専門学校(現在の早稲田大学)を創立したが、その際、密も協力した。
1883年(明治19)、学校が経営難に直面すると、自ら第2代校長に就任し、難局打開のために奔走した。

1888年(明治21)、当時の逓信大臣榎本武揚に請われて再び逓信次官に就任し、電話制度を確立した。この時、大隈は外務大臣として入閣している。
1891年(明治24)、56歳で国の官職を辞する。

1894年(明治27)、北越鉄道株式会社の社長に就任、建設を開始。1904年(明治37)、直江津ー新潟間の開通に成功。
1899年(明治32)、帝国教育会国字改良部長に就任する。
1900年(明治33)、文部省国語調査会委員長等の役職を歴任し、小学校教育での漢字の制限を決定した。
1902年(明治35)、多年の功績が認められ、男爵を授かる。
1904年(明治37)、貴族院議員に選任され、1910年(明治43)まで務める。

1910年(明治43)、75歳のときほとんどの役職を辞した。

1912年(明治45)神奈川県西浦村(現横須賀市芦名)の名刹浄土宗浄楽寺の境内に別邸「如々山荘」を建て、そこで隠遁生活を過ごした。
密は若いころから尺八を趣味とし、夫人も三味線の名手で、二人が旅行するときは必ず尺八と三味線を持参し合奏した。如々山荘に隠居してからも、夫婦でよく合奏したという。
1914年(大正3)、天皇から菊花御紋章3組、銀製盃1組を受ける。
1917年(大正6)、妻・仲子が死去。以来、密は健康が優れなくなる。
1919年(大正8)4月27日に緩慢性尿毒症で長く療養した後死去。84歳の生涯を閉じた。死去の前日、正2位に叙せられている。

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ちなみに、「郵便」や「郵便切手」などの用語は、前島密が選んだものである。また、密は訓盲院設立に協力するなど、社会事業にも業績を残した。訓盲院はわが国最初の盲啞学校で、のち東京盲啞学校、東京教育大学附属盲学校と改称されている。
『縁の下の力持ちになることを厭うな。人のためによかれと願う心を常に持てよ。』前島密の名言であるが、謙虚な密の人間性を伝える言葉である。

☯2019年、没後100年に合わせ「郷土の偉人“前島密翁”を顕彰する会」(堀井靖功会長)が、記念誌「前島密 ふるさと上越との絆」を刊行する。








《前島密マップ》
・前島記念館 上越市大字下池部1317−1 ※地図 ※ストリートビュー
・男爵前島密生誕之碑 上越市大字下池部1317−1 ※地図 ※ストリートビュー















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