石川雲蝶 Uncho Ishikawa 三条市
文化11年(1814)〔生〕- 明治16年(1883)5月13日〔没〕 文化11(1814)年、江戸の雑司ヶ谷(現東京都豊島区)、美濃屋という居酒屋で生まれた石川雲蝶。本名は石川安兵衛といった。 江戸彫りの一流派石川流の本流門人であり、20代ですでに彫物師として名を馳せたという。 雲蝶が越後入りしたのは、嘉永年間、35,6歳の頃。三条の金物商で、法華総本山本成寺の世話役だった内山又蔵との出会いに端を発する。江戸で安兵衛の彫刻を見てすっかりほれ込んみ、本成寺の彫刻を依頼した。 ちなみに「良い酒とノミを終生与える」が、越後入りを決めた理由だったとか。無慾恬淡酒が好きで、常に飄々としていた性格であったという。 越後三条を拠点に魚沼をはじめ、近隣各地で創作活動を始めた雲蝶は、後に内山氏の世話で三条四ノ町の酒井家へ婿入り。江戸で一度結婚はしたが破婚となり、独身であった。 名実ともに「越後の人」となった。妻の名はくにで二人の間にはなみ、儀平の一男一女があった。家は四ノ町土手にあったが、家に在ることめったになく、仕事の為家を離れていたいたことが多かったという。小出の西福寺には18年間も滞在したといわれている。 本成寺では牛の間の巨大な白牛(寝牛)をはじめ、本堂欄間へ天女の図、納骨堂の扁額十二支など多くの彫刻を残したが、明治26年(1883)3月16日、本堂客殿などが延焼し、作品は殆ど焼失した。 作品は、唐獅子牡丹、竜、烏天狗、松、波・・・・・など花鳥が多いが、伝説や歴史上の人物も登場させ、物語になっている。 仕事ぶりは、気が向かないとノミを持たず酒やばくちに遊び惚け、ひとたびノミを握れば『彫の鬼』と化し、作品と向き合ったという。 魚沼市堀之内町永林寺の彫刻は、本堂再建のため棟梁や大工を連れて三条へ大工道具を買いに来た住職との博打に負けたための仕事だった。勝てば大金、負けたら手間ひまいわずタダで彫るという約束だったという。 その妙技と才能は「越後の甚五郎」とたたえられた木彫りにとどまらず、石彫りや絵画にまで及ぶことから「日本のミケランジェロ」とたとえられている。 明治16年(1883)5月13日、69歳で四ノ町の自宅で病を息を引き取った。本成寺納骨堂の傍らに墓石がある。
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