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戊辰戦争

草莽の志士関連人物


長谷川鉄之進

文政5年(1822)11月13日〔生〕 - 明治4年(1871)11月3日〔没〕

幕末の勤皇家、志士。名は世傑、字は公輿、号は強庵。明治40年(1907)贈従四位。

鉄之進は西蒲原郡粟生津村(現燕市下粟生津)の庄屋長谷川誠之の四男に生まれた。鉄之進は長身、頬骨が高く、顔面は鉄の如く、眼光鋭く人を射た。それに千里独行の虚喝刀と呼んだ大刀をたばさみ、堂々たる風があったという。節を屈せね一徹居士であった。

15歳のとき私塾長善館に入門。鈴木文台に師事すること11年に及んだ。
26歳で江戸に遊学し、朝川善庵に師事する。善庵が没すると関東の各地を歴遊、自分で塾を開いて子弟に教授した。
嘉永6年(1853)ペリー来航後は尊皇攘夷を唱え志士活動に身を投じ、塾を閉じて各地を巡る。讃岐では小橋安蔵や日柳燕石と親交を結ぶ。攘夷実行の動きに呼応して京都に上るが文久3年(1863年)の七卿落ちに伴い長州藩へ向かう。
元治元年(1864年)には長州藩軍と共に上京し禁門の変を戦うが敗走。長州藩諸隊の一つ忠勇隊軍司となった。高杉晋作の功山寺挙兵の際は忠憤隊を結成し協力した。馬関戦争に参戦するが講和交渉が進められていたので三田尻へ帰還。外国と講和した長州藩庁への不満から忠勇隊はほどなく解散した。鉄之進は長州を離れた。
慶応元年(1865)単身、奥羽米沢に乗り込んで大義を説き、また村松藩に潜入して佐々耕庵らいわゆる村松七士と会津の奇襲を計画するなど東奔西走した。
戊辰戦争直前には江戸におり、相楽総三を総裁とする薩邸浪士隊の大監察であった。
慶応4年(1868)5月、鉄之進は京都をたって北越の戦場に向かった。
郷国に入った鉄之進は、直ちに関原の新政府軍本営に向かい、種々献策した。その後は出雲崎口にあって海陸出入りの取り締まりをはじめ巡邏斥候、窮民保護の任務に日夜尽粋したが、柏崎で仁和寺宮に面謁して官軍御用掛を仰せつかった。また越後草莽志士の方義隊(のち居之隊)の世話役となってその活動を助け、弥彦、三条、新潟、五泉に転戦して偉功をたてた。
京都に住み、岡崎村安達徳翁の別荘で病を没した。享年50歳。明治40年(1907)5月、従四位を贈られた。







小林政司(まさし)

天保4年(1833)5月5日〔生〕~?〔没〕

小林政司は中蒲原郡曽野木村俵柳(新潟市江南区俵柳)小林禄兵衛の二男として生まれた。小林家は新発田藩でも有数の豪農で、15歳の頃から26歳ころまで江戸、京都、大坂、長州などを歴遊し、前原一誠らの志士と交わり、勤皇の意を固めて帰ってきたという。
文久3年(1863)、大野仲町(現新潟市西区大野仲町)に分家し、郷宿をしていた。このころ新発田藩は領内の農村に治安警備のため農兵隊を組織することを推奨した為、政司もその方針に従って近郷の農民を糾合する準備を進めていた。
小林政司のもとに集まった隊員は3個小隊、総員178名で、水戸藩脱走兵12名を雇って訓練をおこなった。自宅を本部とし新田町の稲荷付近を武術の訓練演習場とした。隊員は曾川・大野周辺の農民が多く、実家の小林六太郎も加わっていた。
慶応4年(1868)7月25日、新政府軍が太夫浜に上陸すると、小林政司は太夫浜に赴き、長州藩隊長岡部富太郎に面会を求め協力を申し出、長州藩干城隊に編入するよう命ぜられた。
28日未明に干城隊に属し沼垂に達し、信濃川を挟んで新潟攻撃に参加した。翌29日、新政府軍の嚮導となって新潟を陥落させ、8月1日には新政府軍200余名と共に本拠大野村に凱旋した。その夜、大野村とは信濃川をはさんだ対岸の酒屋に陣している会津兵を攻撃し、2日朝には酒屋の陣屋を焼き払った。
8日には寺地原方面の米沢兵7名を捕獲するなど残敵掃討をおこなった。その後9月にかけ会津攻略のため赤谷口より津川口の戦闘に参加した。赤谷口の戦いでは戦死者を出している。新潟市護国神社に赤谷口の戦いでの戦死者の墓碑がある。
10月に一連の実績が認められ金革隊の号を授けられ、諸藩兵と同等の待遇を受けることになる。「金革」は「金革を衽とし、死していとわざるは、北方の強なり、而して、強者之に居り。」(中庸第十章、子路問レ強)という一節からとって、干城隊隊長の前原一誠が、居之隊、北辰隊とともに命名したとされている。
12月には当時新発田に駐留していたが、村上城および村上藩降伏者の管理、監視の命令を受ける。
12月18日に村上城に入り、以後明治2年(1869)4月15日まで、村上城を守衛し、降参人鳥居三十郎・脇田蔵人ら16人を監視するため同城に駐留した。この間に村上藩士と紛争を起こしたこともあった。
金革隊は明治2年(1869)5月1日に村上から中条に陣を移し、12月21日水原へ移り守備に就いた。同月に小林政司は苗字帯刀、三人扶持を与えられた。
金革隊は明治3年(1870)2月、東京の治安を維持するため東京に移り、居之隊・北辰隊と共に第三遊撃軍を編成し、その取締りの一人となった。
第三遊軍は9月に解体される。隊内にいた戊辰戦争を共に戦った水戸藩脱走兵が逮捕される事態が発生した。また元々尊王攘夷を旗印として隊士は参集したが、薩長を中心とする政府が、外国の軍制・諸制度を積極的に取り入れる行動を見て、本来の攘夷と違うと、嫌気がさし帰郷を希望する隊士が多かった。
小林政司は、10月7日大野村に帰り、兵部省から新潟県貫属士列に加えられた。他の草莽の志士同様、その信条から、新政府での働き場所はなかった。




遠藤七郎

天保10年(1839)12月17日〔生〕~明治25年(1892)1月6日〔没〕

幕末維新期の尊攘(そんじょう)運動家、草莽の志士。
蒲原郡下興野新田(新潟市北区)の名主。
名は昭忠、字は子明、号は愛山、甘雨、睡虎など。
岡部令太郎に学び、鈴木重胤にも接し、剣術は野本孝平に師事した。
万延元年(1860)桜田門の変に感じ、全国視察の旅に出る。
慶応2年(1866)、父が死亡した為、一旦帰郷する。
慶応3年(1867)郷里を離れ、京阪の間を奔走し勤王の志士たちと往来したという。京に上って情勢を探索して「事実探索書」を新発田藩に提出した。
慶応4年(1868)に郷里が騒がしくなったのを聞いて、帰郷し200人から義勇隊を組織した。遠藤の居村の下興野新田及びその付近の農民が多い。
6月、新発田藩主が列藩同盟に意志を表すため、下関の米沢藩主に挨拶に向かうのを、遠藤の率いる農民1200名が阻止した。ついで、7月末、新政府軍が松ヶ崎海岸に上陸すると、義勇隊を率い、長州干城隊に属し、荻島の戦い、8月14日には赤谷口の戦闘に新発田藩兵と共に先鋒隊として加わった。義勇隊で4名の戦死者を出し、七郎も軽傷を負った。戦死者の墓碑が新潟県護国神社にある。
11月、彼は改めて隊長心得を許され、その義勇隊は三小隊に取り立てられ、長州藩士奥平謙輔に率いられ、佐渡戌兵を命ぜられた。この頃、隊名を北辰隊に変えている。北辰隊の名前は金革隊、居之隊などと共に「中庸」第十章の一節から命名されたという。
佐渡では奥平謙輔の支配に属して明治2年(1869)8月免ぜられるまで在島した。佐渡では遠藤と幹部の西潟八雲は、民政局の官員となり、奥平施政の一翼を担った。また北端の弾野の開拓にも従事した。
明治2年8月、佐渡県が独立するに及んでひき揚げる。佐渡より帰任後は水原県大属として庶務を担当している。
遠藤七郎はその功により終身5人扶持と一代苗字帯刀を許された。
明治3年(1870)2月東京の帝都警護のため、北辰隊を含む金革隊、居之隊で第三遊軍隊が組織されたが、同年9月に解散を命ぜられた。新政府にとって、草莽の国学者流の古い意識はむしろ邪魔にさえなり、やがて疎外されてゆく。
明治5年(1872)に、世に望みをたち郷里に隠棲した。
明治9年(1876)、萩の乱がおこると、前原一誠と親しくしていたことから嫌疑をうけ東京で取り調べが行われる。
明治22年(1889)の頃の遠藤七郎の詩がある。「苦慮千万志望空し」といい、「日々相緩みてこの身老ゆ」と詠じている。
明治25年(1892)東京で客死した。文明開化の時流に合わず、晩年は不遇に終わった。年54。
昭和3年(1928)に勤王の功労により従五位を追贈された。

  • ❏開市神社・遠藤七郎銅像・遠藤七郎顕彰碑 ※GOOGLE 画像
    〔所在地〕新潟市北区葛塚 新潟市北区葛塚 稲荷神社
  • ❏墓所
    〔所在地〕稲荷神社裏手



松田秀次郎

天保2年(1831)〔生〕~明治29年(1896)8月30日〔没〕

名は義昌。号は胖仙,良知。
旧狭口村(現加茂市)の庄屋笠原家に生まれ、親戚の安田興野 (現見附市)庄屋笠原勘之助の養嗣子となつた。松田とは笠原氏の遠祖の姓で、家族に難が及がことを恐れて変名を用いたという。
慶応3年(1867)、杉之村(現長岡市中之島)名主高橋竹之助と京都にゆく。二人は、北越の鎮定と御親兵の取り立てを建白し、松田は帰郷するが、高橋竹之介は、京に止まり、北陸道鎮撫使高倉永祜から、同志を糾合し先鋒たるべしとの沙汰書を、明治元年(1868)1月18日に受け取って帰国した。
そして2月中旬、三島郡坂谷村(現長岡市和島)池浦広太郎宅に高橋をはじめ、新発田藩領中之島組安田興野名主松田秀次郎・中之島村医師二階堂保則や、糸魚川領魚沼郡並柳村(現魚沼市広神)大割元関谷孫左衛門などが集まって、下越の隊長を松田秀次郎、上越の隊長を室孝次郎とする一隊を結成した。隊名を方義隊として、新政府軍を迎えるための準備をし、同志を募ることとした。方義隊隊員は150余人と言われている。しかも、大半が庄屋、豪農であることが特徴である。
方義隊の結隊には問題もあった。
閏4月23日、松田と二階堂は江戸において北陸道総督府から大隊旗を受領したが、新政府軍参謀山県狂介らは、方義隊を嚮導役、地元での道案内程度の役割しか考えていなかったので、軍隊の隊旗を与えることに異論を差しはさんだ。結局、大隊旗を返上せざるを得なかった。また、7月には御親兵取締巣内式部を通じて、方義隊は新政府軍の親兵として取り立てられることになり、錦章13枚をもらい受けた。ところが、巣内配下の親兵に紛乱があり、巣内も謹慎を命ぜられた。方義隊も御親兵と称したことがとがめられた。
これらの事件は、草莽隊としての方義隊が、親兵となって直接、天皇や公卿などに結び付くことを、薩長などの参謀が喜ばなかったことを物語っている。
戦いが小出、小千谷、長岡と迫ると、軍に参加して、会津米沢征伐に加わるようになった。
9月には隊名を中庸第十章の一説「金革を衽とし、死していとわざるは、北方の強なり、而して、強者之に居り。」から居之隊と改め、村上・庄内方面へ従軍。

11月松田秀次郎を隊長とする三小隊の屯集が認められ、水原町や加茂町の守衛を命ぜられた。
明治3年(1870)正月、東京に呼び出され、北辰・金革隊と合わせて150名の第三遊撃隊として、帝都警備に就いた。
9月、第三遊撃隊は解散を命ぜられた。松田は隊の処遇に対する不満もあって郷里に帰り、居之隊を解隊してしまう。明治16年(1883)県史編輯主任となり、明治25年(1892)弥彦神社宮司となった。
明治29年(1896)8月30日死去。66歳。



星野藤兵衛

文政11年(1828)〔生〕-明治9年(1876)6月7日〔没〕

星野家は越後国刈羽郡柏崎町で、代々酒屋質屋を営み、万延元年(1860)父の職を継いだ。文久3年(1863)、国学者で萩藩士近藤芳樹は越後の動静調査のため星野邸を訪問する。近藤は国の情勢を熱く語ると藤兵衛は痛く共鳴し、王政復古への協力を誓う。勤皇の志をいだき、同志を集めては兵器糧食を貯えた。
明治元年(1868)正月の戊辰戦争時、3月中旬、官軍の先鋒隊が糸魚川に到着すると星野は越後の不穏な情報を伝え、資金・兵糧・人夫などの提供を申し入れ、町の救済を願う。高田に至り北陸道鎮撫総督兼鎮撫使高倉永祜と連絡し、桑名藩の恭順派の吉村権左衛門と図り、越後国内の情勢を伝える。
5月、柏崎民政局御用係となり、政府軍の為に探査に当たり、糧食を供給し(新政府軍の糧食921,724食を献上したとの記録もある)。ついで町村取締役を命ぜられて多大の功績があった。そのため、衝鋒隊や水戸脱走兵(諸生党)から命を狙われ、身辺の危険を感じ剣野山の別荘に隠れ住んだこともあった。
これらの功績を賞して苗字帯刀御用達を賜わり、郷士に列することとなった。柏崎市では、町を戦火から救った恩人とされている。
しかし、藤平衛は、家産を傾け財も使い果たしたため、平定後は職を辞した。その功に対し終身三人扶持を賜った。年49で没した。
藤平衛の墓のある妙光寺は、新政府軍の本営のあったところであり、藤兵衛をはじめ加賀藩士の墓や、駐屯兵の落書きが本堂に残されている。