戊辰戦争
長岡藩関連人物
天保10年(1839)〔生〕~大正8年(1919)〔没〕
福山町で代々百姓に従事した家の5人兄弟の長男として生まれる。若いころ庄屋の推挙によって河井家に中間として奉公に上がり、継之助が戦いに敗れて会津塩沢の地で没するまで、常に忠実な従僕として仕えたというのが表向きの経歴である。
実は遁れない事情から、死罪となっても言い逃れできない中、継之助に命を助けられた人物であった。
15歳で藩主の駕籠かきの一人として奉公に上がったのだが、まじめでおとなしい務めぶりが認められて、藩主のちかくに居て雑用を勤め、奥の庭掃除などもやっていた。
その容姿は、6尺豊かながっしりとした体躯で、鼻筋の通った眉目秀麗な美男だったと言われる。
慶応2年(1866)のこと、藩主忠恭の娘つね子が夫の忠訓が江戸にいた時、わがままから松蔵招き入れるようになったという。つね子は懐妊し奥女中たちの気付く所となり、大騒ぎになった。
藩主忠恭は、娘が不義密通の張本人とあって頭を痛め、その処断を当時郡奉行兼町奉行であった河井継之助にゆだねた。
継之助はつね子のわがままから出た事態であり、つね子にこそ問題があることがよくわかっていたことから、松蔵を哀れみ、斬首に処したことにして、家僕として使ったという。この話は藩内では極秘とされた。
この事があって松蔵は、継之助に非常な恩義を感じ、命がけで仕えたという。一方、つね子は慶応2年(1866)密に出産し、生まれた子供は継之助ゆかりの子として、他国へ出国させ、事件は闇に葬られた。
5月2日、松蔵は河井継之助が岩村精一郎と談判するため小千谷に向かった時、二見虎三郎とともに同行している。
7月25日、河井継之助が激戦地を視察中、銃弾に倒れた時には、側にいた松蔵はすぐ腹帯で包帯をした。
8月16日、河井継之助が塩沢村医矢沢方で息を引きとったとき、松蔵は、継之助の髪を切り取り、沐浴させて只見川の河原で荼毘に付した。松蔵は継之助の骨を拾い大きな風呂敷に包んで銃弾の中を会津若松城に向けて走った。忠恭・忠訓列席の元、城下で継之助の葬儀が執り行われている。
9月22日、若松城が開城されるに及んで松蔵は、新政府軍兵が継之助の骨を掘りだして狼藉を働くことを懸念、骨は全部自分で確保し、骨箱にはわざと石ころや砂を入れて埋め、仮の墓標を立てておいた。骨はひそかに山の中に持去り、目印になる松の根方に仮埋葬して置いた。
戦後処理も落ち着いて松蔵も獄舎を放たれてから、彼はこっそり継之助の遺骨を掘りだして長岡へ持ち帰り、河井家に渡した。
維新後は木川松蔵と名乗り、結婚して一子を得たが、早くして妻子に先立たれたために、末妹に婿(忠吉)をとり木川家を継がせた。木川の姓は福山町の庄屋木村と河井の姓から一字ずつ取り河井がつけたものと言う。
大正8年(1919)、松蔵81歳で波乱の生涯を閉じている。しかし戦時中の事は誰にも話したがらなかったという。
天保7年(1836)〔生〕~明治18年(1885)〔没〕
稲垣平助(茂光)は、越後長岡藩随一の門閥・名門であった永代家老の稲垣平助家の生まれで、家老首座で2000石の石高を得ていた。邸を長岡城の西の郭内に構えていた。
三河西尾藩主・大給松平家から養子として招かれた藩主忠恭から軽視され、その苦悩からか体調を崩したといわれる。忠恭はその当時、公用人であった河井継之助を重用し段々立身させていた。
平助は継之助より10歳年下で、見識も遥かにおとっていた。事あるごとに、旧例・前例を持ち出し解決を図ろうとする平助は、時代の変化に敏感であった忠恭からは疎んじられた。
藩内で恭順派と佐幕派で論争となった時には、恭順・非戦をとき、恭順派の中心人物として、藩主に帰順を勧めた。
藩主忠訓が藩主となっても、平助は遠ざけられた。一方で忠訓は継之助を家老に引き揚げ、その進言を容れた。
河井継之助は家老として藩政改革を断行し、門閥の平均化のため稲垣平助家は、500石に減知された。家老職こそ取り上げられなかったものの、兵学所頭取に棚上げされて事実上、藩政から外された。本来の平助の性格は、良家の子息であったことも影響したのかかなり楽観家であった。くじけそうな場面に直面しても、新たな方向を見つけ、気持ちを入れ替えそれに向かうことができた。
5月19日、長岡城が落城すると、恭順派の藩士15名は、新政府軍に降伏を申し入れ、松代藩に預けられ、小千谷で謹慎することになった。平助は知り合いを頼って、加茂町に逃れたが、同盟軍の敗兵が加茂に集まってきたので、巻組の庄屋を頼って逃れた。落城時、敵前逃亡のような形で逃れたことから、長岡藩兵にも見つかることを恐れての行動であった。
6月20日、平助は出雲崎の新政府軍の本営に出向き、降伏と主家の謝罪と再興を申し出た。平助は出雲崎近くの勝見浜で謹慎を申し付けられ、その後長岡で謹慎を申し付けられた。
長岡城再落城後の8月5日、長岡の民生局から平助は呼び出され、民政御用掛として長岡復興を担当するよう申し付けられた。平助は何から手をつければよいか途方に暮れたが、まずは帰順降参し小千谷で謹慎中の藩士たちを長岡に移す様申し出た。
一方で、平助は新政府軍の山県狂介などの参謀に働きかけ、主家の謝罪と再興の嘆願を繰り返したが、これが、新政府軍の組織を無視した勝手な行動としてうとまれて、9月24日付で民政局を罷免されてしまう。
この後、平助は東京に向かい、新政府内でできた人脈を利用して、大久保一蔵(利通)に面会の機会を得て、主家の謝罪と再興を嘆願した。また謹慎中の忠訓について東京に出て来ていた三島億二郎とも接触している。
12月7日、東北諸藩に対する処分が発表された。いずれも藩主は死一等を減じられ、朝敵藩に対する一斉処分を断行する。第12代長岡藩主牧野忠訓には領地没収・謹慎を命じられる。その後、22日、長岡藩牧野家は赦免され、旧領のうち上組と下組において2万4千石を賜って、長岡城保管を命ぜられた。
平助は、長岡藩に100石減知され400石で復帰した。民生部門を担当したが、本人の考えがどうであったかには関係なく、他の藩士たちからは、主家を裏切り出奔した人物とみられていた。
廃藩置県後は、大きな桑畑を持っていたのでこれの開墾・育成に精を出し、また旅籠の経営にも手を出したが失敗した。
天保6年(1835)〔生〕~慶応4年(1868)9月14日〔没〕
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長岡藩士。 軍目付、銃卒隊長。65石。長岡藩随一の剣客といわれた。
長岡藩が第2次長州征伐に参加し、大坂に出征した際に撮影した写真が残されている。
慶応4年(1868)5月2日黎明、新政府軍軍監岩村精一郎との会談の為、河井継之助は軍目付二見虎三郎とともに駕籠に乗り、摂田屋村の本営を出発した。
慈眼寺の談判場には、河井継之助一人が列席した。二見虎三郎は、談判場の隣室に控えて万一の場合に備えていた。談判の決裂後、河井は、小千谷で宿をとり二見を相手に酒肴を重ね、詩を吟じていたという。
長岡城が再落城すると、他の藩士と共に八十里峠を越えて、会津坂下に向かった。
慶応4(1868)年8月25日、長岡軍4小隊200名足らずと衝鋒隊200余名が会津坂下の長岡藩本陣から出発した。二見虎三郎は一隊を指揮した。七日町口で薩摩藩兵と激戦となり、二見は負傷し、山形で治療を受けたが、9月14日死亡した。
- 〔墓所〕 栄凉寺(新潟県長岡市東神田3丁目5-6 )
- 〔慰霊墓〕 招魂社(長岡市悠久町707 悠久山)
?〔生〕~?〔没〕
. 花輪ははじめ馨之進と称し、藩校崇徳館の秀才で、長岡藩では三間市之進、渡辺進とともに「三進」と呼ばれたほどの俊才だった。
禄高こそ200石だったが、代々奉行職を継いできた名家で、門閥の一つであった。
藩政改革を推進中の河井と、門閥の花輪たちと烈しく対立していた。
しかし河井継之助より9歳年下だった花輪は、継之助の人柄や知見などに触れ大いに心酔し運命をともにしようと決めた。長岡軍では軍事掛として、また作戦参謀として継之助を支えた。継之助が後事を他に託す時には、「花輪に頼む」とよく口にしたという。
長岡城落城後の5月22日開かれた加茂軍議に継之助は花輪の陪席を命じている。
6月1日、今町の戦いでは、大隊長山本帯刀の下、牽制隊を指揮した。
6月22日、八丁沖渡渉作戦の前哨戦が行われた。花輪が指揮する長岡軍4小隊と米沢軍2小隊が八丁沖を渡って福島村に上陸したが、新政府軍に反撃されて失敗し撤退している。
7月3日、河井継之助は花輪求馬を従え、長岡城恢復の策を決行するために、見附にいた長岡勢を栃尾に引き揚げさせた。ここで花輪は長岡城奪還作戦の八丁沖渡河作戦を作成した。
7月24日、長岡城奪還作戦が実行され、花輪は第三軍を指揮して新政府軍本営の在った神田町を目指した。
8月16日、河井は銃創をうけ会津塩沢村で病床に付していた。息を引き取る前に、花輪を呼び後事を託したといわれる。
戊辰戦争後、明治に入って花輪は、秋田外記と名前を変え、長岡藩に出仕し、権大参事に任じられている。
文政8年10月18日(1825年11月27日)〔生〕~明治25年(1892年)3月25日〔没〕
長岡藩の下級武士伊丹市左衛門の二男として、長岡城下の長町に生まれる。
弘化元年(1844年)、長岡藩士・川島徳兵衛の養子となる。川島家は37石の微禄であった。
長岡藩の藩校である崇徳館で学び、崇徳館の助教を経て、嘉永2年(1849年)には江戸藩邸勤務となる。江戸在勤中に、佐久間象山の塾に通うようになり、そこで吉田松陰とも親しくなった。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際して、河井継之助と意見が分かれ、億次郎は恭順派であった。しかし、慈眼寺での談判が決裂した翌日、長岡藩軍事総督だった河井継之助は、億次郎と前島神社で会談。「我を切り3万両とともに差し出せば、戦争は避けられる」と言う継之助に、億次郎は「是非もなし。生死をともにせん」と応じて開戦を決意した。
川島は軍事掛となって、5月10日明六つ半(午前7時頃)、榎峠を奪還するため、銃士隊長波多謹之丞・大川市左衛門、銃卒隊長牧野八左衛門・田中文治の迂回隊四小隊を率いて、村松通りの間道から妙見村の古城址金倉山を進軍し、榎峠の奪還に成功した。
この後長岡城落城後は、八丁沖からの長岡城奪還にも参加している。
長岡城再落城後の8月19日、長岡藩が本陣とした会津坂下定林寺に藩士たちは集結し、藩主に拝謁し、その後、軍編成替えを行い、川島億次郎は部隊を率いて若松城への救援のため城外で城内との連絡路を確保しようと戦闘を続けたが、敗退し藩主が向かった米沢に敗走した。
9月25日、仙台にいた藩主忠訓は、川島億次郎に降伏文書を持たせ、支藩の笠間藩も参戦した平潟口にあった総督府へ降伏文書を届けさせている。また、降伏後は、藩主が謹慎を申し付けられた東京に向かい、主家の助命嘆願の働きかけを新政府へ行っている。
明治以後は三島億二郎と改名した。明治2年(1869年)、版籍奉還によって、長岡藩知事となった藩主・牧野忠毅は、牧野頼母、小林虎三郎、三島の3人を藩の大参事に任命した。さらに、明治3年(1870年)の長岡廃藩に伴い、三島は柏崎県大参事に任命された。
廃墟と化した郷土とただ茫然と立ちすくす人々の中にあって、強い指導力を発揮し長岡復興に力を尽くし、後に長岡の恩人と言われた。
- ❏墓所
〔所在地〕 長岡市東神田3丁目5番6号 栄凉寺
- ❏三島億二郎の碑
〔所在地〕長岡市御山町80-5(悠久山公園)
- ❏銅像
〔所在地〕長岡市千秋2丁目
天保7年(1836)7月〔生〕- 明治32年(1899)6月3日〔没〕
長岡藩士三間安左衛門の子として生まれる。三間市之進は、花輪求馬、渡辺進とともに長岡藩校崇徳館では「三進」と呼ばれたほどの俊才だった。
文久2年(1862)、主君牧野忠恭が京都所司代に任ぜられると、これに従って上洛し、京都で公用人を務める。
文久3年(1863)、忠恭が老中に任ぜられると、江戸藩邸で河井と共に出仕する。
慶応3年(1867)、10月14日、幕府による大政奉還が行われたが、長岡藩では、治政は徳川氏へ御委任すべしという趣旨の建白することとなり、12月22日河井継之助が藩主の名代となって、朝廷議場所に出頭し、建言書を奉呈した。この時、三間は副使として河井に同行している。
慶応4年(1868)、鳥羽伏見の敗戦で幕府が崩壊し、朝命を奉じて新政府軍が長岡に迫ると、三間は軍事掛となり、継之助を輔佐し、戦闘に参戦している。
5月22日、長岡城落城後、同盟軍は加茂で加茂軍議を開き、今後の新政府軍との戦いの作戦を練ったが、河井継之助は三間市之進を花輪求馬とともに陪席させている。
5月24日、この軍議での決定により三間市之進は、川島憶二郎、銃士隊長大川市左衛門とともに、十一小隊、砲二門を率いて杤尾攻略に向かっている。
6月22日に、第一回目の八丁沖渡渉作戦が行われた。長岡藩四個小隊160余人・米沢藩隊二個小隊・会津藩朱雀四番士中半隊が八丁沖を徒渉。三間は徒渉部隊の大黒口福井裏から正面攻撃する部隊を指揮。奇襲は成功したが、周辺地区の新政府軍の反撃で、同盟軍は危機に陥り撤退。この撤退戦で三間の的確な指揮がなかったら、新政府軍に包囲され多くの犠牲者が出たといわれている。
7月17日夜、河井継之助は杤尾の仮本営に山本帯刀ら三大隊長、川島・三間ら軍事掛、会津・桑名などの諸将を集めて第二回目の八丁沖渡渉作戦を説明した。
7月24日に、第二回目の八丁沖渡渉作戦が行われた。三間は徒渉部隊の第二軍(中軍)を指揮。最も長岡城に近い地点まで潜行し、敵陣への奇襲を成功させた。 翌日(25日)長岡城奪還にも成功した。しかし河井が銃撃をうけ負傷、長岡城を再度新政府軍に奪還されると、長岡藩兵は、八十里越を通って、会津領へ敗走し、会津坂下に本陣を置いた。
8月25日、会津藩七日町口で、長岡藩200名と新政府軍との間で戦闘が行われた。これが、長岡藩として組織だった戦闘の最後となった。多くの、指揮官が、戦死や負傷し離脱した為、部隊が維持できず、この後、多くは藩主の向かった米沢藩に向かうこととなったが、三間もこの中にいた。
9月25日、仙台にいた長岡藩主らは、川島億次郎に降伏文書を持たせ、西軍の平潟口総督府へ提出させた。新発田にあった越後口の総督府には、10月6日になって、三間市之進と稲垣主税が藩主名による降伏謝罪文を提出した。
長岡藩の降伏後、新政府は反逆首謀者の処分を求め、河井継之助と山本帯刀を名指ししたが、2名とも戦死しており、長岡藩では、生存者の中から1名責任者を出すこととなった。奉行で軍事掛であった三間市之進が選ばれ、河井継之助・山本帯刀・三間市之進の三人を謀反首謀者として12月18日付で総督府に届け出た。三間は無期謹慎が命ぜられた。
明治3年(1870)3月になって三間の謹慎が解かれた。この時名前を、三間市之進から三間正弘に改めている。
明治3年(1870)10月、小諸藩大参事となり、明治4年(1871)11月、廃官。明治6年(1873)5月、明治政府に文部省10等出仕として入り、同年12月、免出仕となる。
明治7年(1874)2月、警視庁に10等出仕として入り、大警部、権少警視、少警視と昇進。
明治10年(1877)3月、陸軍少佐兼権少警視となり、西南戦争に別働第3旅団参謀として出征した。
後に東京憲兵隊本部長や憲兵司令官などを務め、明治26年(1893)には石川県知事に就任し、明治29年(1896)までこれを務めた。賊軍とされた長岡藩出身者で、県知事にまで上り詰めた唯一の人物であった。
明治32年(1899)6月3日に没している。墓は東京谷中霊園にある。
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